『春と修羅』
宮沢賢治
[#ページの左右中央] 心象スケツチ 春と修羅 大正十一、二年 [#改丁] わたくしといふ現象は 仮定された有機交流電燈の ひとつの青い照明です (あらゆる透明な幽霊の複合体) 風景やみんなといつしよに せはしくせはしく明滅しながら いかにもたしかにともりつづける 因果交流電燈の ひとつの青い照明です (ひかりはたもち その電燈は失はれ) これらは二十二箇月の 過去とかんずる方角から 紙と鉱質インクをつらね (すべてわたくしと明滅し みんなが同時に感ずるもの) ここまでたもちつゞけられた かげとひかりのひとくさりづつ そのとほりの心象スケツチです これらについて人や銀河や修羅や海胆は 宇宙塵をたべ または空気や塩水を呼吸しながら それぞれ新鮮な本体論もかんがへませうが それらも畢竟こゝろのひとつの風物です たゞたしかに記録されたこれらのけしきは 記録されたそのとほりのこのけしきで それが虚無ならば虚無自身がこのとほりで ある程度まではみんなに共通いたします (すべてがわたくしの中のみんなであるやうに みんなのおのおののなかのすべてですから) けれどもこれら新生代沖積世の 巨大に明るい時間の集積のなかで 正しくうつされた筈のこれらのことばが わづかその一点にも均しい明暗のうちに (あるいは修羅の十億年) すでにはやくもその組立や質を変じ しかもわたくしも印刷者も それを変らないとして感ずることは 傾向としてはあり得ます けだしわれわれがわれわれの感官や 風景や人物をかんずるやうに そしてたゞ共通に感ずるだけであるやうに 記録や歴史 あるいは地史といふものも それのいろいろの (因果の時空的制約のもとに) われわれがかんじてゐるのに過ぎません おそらくこれから二千年もたつたころは それ相当のちがつた地質学が流用され 相当した証拠もまた次次過去から現出し みんなは二千年ぐらゐ前には 青ぞらいつぱいの無色な孔雀が居たとおもひ 新進の大学士たちは気圏のいちばんの上層 きらびやかな氷窒素のあたりから すてきな化石を発掘したり あるいは白堊紀砂岩の層面に 透明な人類の巨大な足跡を 発見するかもしれません すべてこれらの命題は 心象や時間それ自身の性質として 第四次延長のなかで主張されます 大正十三年一月廿日 宮沢賢治
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[#ページの左右中央] [#改ページ] 七つ森のこつちのひとつが 水の中よりもつと明るく そしてたいへん巨きいのに わたくしはでこぼこ凍つたみちをふみ このでこぼこの雪をふみ 向ふの縮れた 陰気な郵便 (またアラツデイン 急がなければならないのか (一九二二、一、六)
[#改ページ]たよりになるのは くらかけつづきの雪ばかり 野はらもはやしも ぽしやぽしやしたり すこしもあてにならないので ほんたうにそんな ほのかなのぞみを送るのは くらかけ山の雪ばかり (ひとつの (一九二二、一、六)
[#改ページ]日は今日は小さな天の銀盤で 雲がその どんどん侵してかけてゐる 太市は (一九二二、一、九)
[#改ページ]ひとかけづつきれいにひかりながら そらから雪はしづんでくる ぎらぎらの丘の照りかへし あすこの農夫の どこかの風に鋭く截りとられて来たことは 一千八百十年 佐野喜の木版に相当する 野はらのはてはシベリヤの天 土耳古 (お日さまは そらの遠くで白い火を どしどしお焚きなさいます) 笹の雪が 燃え落ちる 燃え落ちる (一九二二、一、一二)
[#改ページ]まちなみのなつかしい灯とおもつて いそいでわたくしは雪と これはカーバイト倉庫の軒 すきとほつてつめたい電燈です ( 巻烟草に一本火をつけるがいい) これらなつかしさの擦過は 寒さからだけ来たのでなく またさびしいためからだけでもない (一九二二、一、一二)
[#改ページ]コバルト あやしい朝の火が燃えてゐます たしかにせいしんてきの白い火が 水より強くどしどしどしどし燃えてゐます (一九二二、一、二二)
[#改ページ]青じろい骸骨星座のよあけがた 凍えた泥の 店さきにひとつ置かれた 提婆のかめをぬすんだもの にはかにもその長く黒い脚をやめ 二つの耳に二つの手をあて 電線のオルゴールを聴く (一九二二、三、二)
[#改ページ]けふはぼくのたましひは疾み あいつはちやうどいまごろから つめたい 透明 ほんたうに けれども妹よ けふはぼくもあんまりひどいから やなぎの花もとらない (一九二二、三、二〇)
[#改ページ]心象のはひいろはがねから あけびのつるはくもにからまり のばらのやぶや腐植の湿地 いちめんのいちめんの (正午の 琥珀のかけらがそそぐとき) いかりのにがさまた青さ 四月の気層のひかりの底を おれはひとりの修羅なのだ (風景はなみだにゆすれ) 砕ける雲の れいろうの天の海には ZYPRESSEN 春のいちれつ くろぐろと その暗い脚並からは 天山の雪の稜さへひかるのに (かげろふの波と白い偏光) まことのことばはうしなはれ 雲はちぎれてそらをとぶ ああかがやきの四月の底を はぎしり燃えてゆききする おれはひとりの修羅なのだ (玉髄の雲がながれて どこで啼くその春の鳥) 日輪青くかげろへば 修羅は樹林に交響し 陥りくらむ天の椀から 黒い木の群落が延び その枝はかなしくしげり すべて二重の風景を 喪神の森の梢から ひらめいてとびたつからす (気層いよいよすみわたり ひのきもしんと天に立つころ) 草地の黄金をすぎてくるもの ことなくひとのかたちのもの けらをまとひおれを見るその農夫 ほんたうにおれが見えるのか まばゆい気圏の海のそこに (かなしみは青々ふかく) ZYPRESSEN しづかにゆすれ 鳥はまた青ぞらを截る (まことのことばはここになく 修羅のなみだはつちにふる) あたらしくそらに息つけば ほの白く肺はちぢまり (このからだそらのみぢんにちらばれ) いてふのこずゑまたひかり ZYPRESSEN いよいよ黒く 雲の火ばなは降りそそぐ ((一九二二、四、八))
[#改ページ]いつたいそいつはなんのざまだ どういふことかわかつてゐるか 髪がくろくてながく しんとくちをつぐむ ただそれつきりのことだ 春は草穂に うつくしさは消えるぞ (ここは蒼ぐろくてがらんとしたもんだ) 頬がうすあかく瞳の茶いろ ただそれつきりのことだ (おおこのにがさ青さつめたさ) (一九二二、四、一〇)
[#改ページ]起伏の雪は あかるい桃の 青ぞらにとけのこる月は やさしく天に もいちど散乱のひかりを呑む ( (一九二二、四、一三)
[#改ページ]ひかりの澱 三角ばたけのうしろ かれ草層の上で わたくしの見ましたのは 顔いつぱいに赤い点うち 硝子 しきりに歪み合ひながら 何か相談をやつてゐた 三人の妖女たちです (一九二二、四、二〇)
[#改ページ]どこからかチーゼルが刺し わをかく わを描く からす 烏の軋り……からす器械…… (これはかはりますか) (かはります) (これはかはりますか) (かはります) (これはどうですか) (かはりません) (そんなら おい ここに 雲の棘をもつて来い はやく) (いゝえ かはります かはります) ………………………刺し 光パラフヰンの蒼いもや わをかく わを描く からす からすの軋り……からす機関 (一九二二、四、二三)
[#改ページ]あゝいゝな せいせいするな 風が吹くし 農具はぴかぴか光つてゐるし 山はぼんやり みんな時間のないころのゆめをみてゐるのだ そのとき雲の信号は もう青白い春の 禁慾のそら高く 山はぼんやり きつと四本杉には 今夜は雁もおりてくる (一九二二、五、一〇)
[#改ページ]雲はたよりないカルボン酸 さくらは咲いて日にひかり また風が来てくさを吹けば 截られたたらの木もふるふ さつきはすなつちに (いま青ガラスの模型の底になつてゐる) ひばりのダムダム 風は青い喪神をふき 黄金の草 ゆするゆする 雲はたよりないカルボン酸 さくらが日に光るのはゐなか (一九二二、五、一二)
[#改ページ]キンキン光る (つめくさ つめくさ) こんな舶来の草地でなら 黒砂糖のやうな甘つたるい声で唄つてもいい と ┃ また鞭をもち赤い上着を着てもいい ら ┃ ふくふくしてあたたかだ よ ┃ 野ばらが咲いてゐる 白い花 と ┃ 秋には熟したいちごにもなり す ┃ 硝子のやうな実にもなる野ばらの花だ れ ┃ 立ちどまりたいが立ちどまらない ば ┃ とにかく花が白くて足なが蜂のかたちなのだ そ ┃ みきは黒くて の ┃ (あたまの奥のキンキン光つて痛いもや) 手 ┃ このやぶはずゐぶんよく据ゑつけられてゐると か ┃ かんがへたのはすぐこの上だ ら ┃ じつさい岩のやうに こ ┃ 船のやうに と ┃ 据ゑつけられてゐたのだから り ┃ ……仕方ない は ┃ ほうこの麦の間に何を播いたんだ そ ┃ すぎなだ ら ┃ すぎなを麦の間作ですか へ ┃ と ┃ ひやかしに云つてゐるやうな ん ┃ そんな で ┃ 私の中に棲んでゐる 行 ┃ く ┃ さうだ (一九二二、五、一四)
[#改ページ]そのきらびやかな空間の 上部にはきんぽうげが咲き (上等の 下にはつめくさや芹がある ぶりき細工のとんぼが飛び 雨はぱちぱち鳴つてゐる (よしきりはなく なく それにぐみの木だつてあるのだ) からだを草に投げだせば 雲には白いとこも黒いとこもあつて みんなぎらぎら湧いてゐる 帽子をとつて投げつければ黒いきのこしやつぽ ふんぞりかへればあたまはどての向ふに行く あくびをすれば そらにも悪魔がでて来てひかる このかれくさはやはらかだ もう極上のクツシヨンだ 雲はみんなむしられて 青ぞらは巨きな網の目になつた それが底びかりする鉱物板だ よしきりはひつきりなしにやり ひでりはパチパチ降つてくる (一九二二、五、一四)
[#改ページ]風はそらを吹き そのなごりは草をふく おきなぐさ 松とくるみは宙に立ち (どこのくるみの木にも いまみな ああ黒のしやつぽのかなしさ おきなぐさのはなをのせれば 幾きれうかぶ (一九二二、五、一七)
[#改ページ]かはばたで鳥もゐないし (われわれのしよふ 風の中からせきばらひ おきなぐさは伴奏をつゞけ 光のなかの二人の子 (一九二二、五、一七)
[#改丁][#ページの左右中央] [#改ページ] 融銅はまだ 白いハロウも燃えたたず 地平線ばかり明るくなつたり はんぶん溶けたり澱んだり しきりにさつきからゆれてゐる おれは新らしくてパリパリの その一本の水平なえだに りつぱな硝子のわかものが もうたいてい三角にかはつて そらをすきとほしてぶらさがつてゐる けれどもこれはもちろん そんなにふしぎなことでもない おれはやつぱり口笛をふいて 大またにあるいてゆくだけだ いてふの葉ならみんな青い 冴えかへつてふるへてゐる いまやそこらは alcohol 瓶のなかのけしき 白い あの永久の それから新鮮なそらの ところがおれはあんまりステツキをふりすぎた こんなににはかに木がなくなつて 眩ゆい さうとも もう二哩もうしろになり 野の あさの練兵をやつてゐる うらうら湧きあがる 氷ひばりも啼いてゐる そのすきとほつたきれいななみは そらのぜんたいにさへ かなりの すなはち雲がだんだんあをい虚空に融けて たうとういまは ころころまるめられたパラフヰンの ぽつかりぽつかりしづかにうかぶ 地平線はしきりにゆすれ むかふを鼻のあかい灰いろの紳士が うまぐらゐあるまつ白な犬をつれて あるいてゐることはじつに明らかだ (やあ こんにちは) (いや いゝおてんきですな) (どちらへ ごさんぽですか なるほど ふんふん ときにさくじつ ゾンネンタールが おききでしたか) (いゝえ ちつとも ゾンネンタールと はてな) (りんごが (りんご ああ なるほど それはあすこにみえるりんごでせう) はるかに その金いろの もくりもくりと延びだしてゐる (金皮のまゝたべたのです) (そいつはおきのどくでした はやく王水をのませたらよかつたでせう) (王水 口をわつてですか ふんふん なるほど) (いや王水はいけません やつぱりいけません 死ぬよりしかたなかつたでせう うんめいですな せつりですな あなたとはご親類ででもいらつしやいますか) (えゝえゝ もうごくごく遠いしんるゐで) いつたいなにをふざけてゐるのだ みろ その馬ぐらゐあつた白犬が はるかのはるかのむかふへ遁げてしまつて いまではやつと (あ わたくしの犬がにげました) (追ひかけてもだめでせう) (いや あれは おさへなくてはなりません さよなら) おまけにのびた おれなどは石炭紀の ただいつぴきの蟻でしかない 犬も紳士もよくはしつたもんだ 東のそらが いつぱい琥珀をはつてゐる そこからかすかな すつかり どうだこの天 このものすごいそらのふち 愉快な かあいさうにその つめたい板の 瘠せた肩をぷるぷるしてるにちがひない もう冗談ではなくなつた 画かきどものすさまじい幽霊が すばやくそこらをはせぬけるし 雲はみんなリチウムの紅い焔をあげる それからけはしいひかりのゆきき くさはみな褐藻類にかはられた こここそわびしい雲の焼け野原 風のヂグザグや黄いろの渦 そらがせはしくひるがへる なんといふとげとげしたさびしさだ (どうなさいました 牧師さん) あんまりせいが高すぎるよ (ご病気ですか たいへんお顔いろがわるいやうです) (いやありがたう べつだんどうもありません あなたはどなたですか) (わたくしは保安掛りです) いやに四かくな そのなかに いろいろはひつてゐるんだな (さうですか 今日なんかおつとめも大へんでせう) (ありがたう いま途中で行き (どんなひとですか) (りつぱな紳士です) (はなのあかいひとでせう) (さうです) (犬はつかまつてゐましたか) ( 犬はもう十五哩もむかふでせう じつにいゝ犬でした) (ではあのひとはもう死にましたか) (いゝえ露がおりればなほります まあちよつと黄いろな時間だけの ううひどい風だ まゐつちまふ) まつたくひどいかぜだ たふれてしまひさうだ 沙漠でくされた たしかに硫化水素ははひつてゐるし ほかに無水亜硫酸 つまりこれはそらからの瓦斯の気流に二つある しようとつして渦になつて硫黄 気流に二つあつて硫黄華ができる 気流に二つあつて硫黄華ができる (しつかりなさい しつかり もしもし しつかりなさい たうとう参つてしまつたな たしかにまゐつた そんならひとつお時計をちやうだいしますかな) おれのかくしに手を入れるのは なにがいつたい保安掛りだ 必要がない どなつてやらうか どなつてやらうか どなつてやらうか どなつ…… 水が落ちてゐる ありがたい有難い神はほめられよ 雨だ 悪い瓦斯はみんな溶けろ (しつかりなさい しつかり もう大丈夫です) 何が大丈夫だ おれははね起きる (だまれ きさま 黄いろな時間の追剥め 飄然たるテナルデイ軍曹だ きさま あんまりひとをばかにするな 保安掛りとはなんだ きさま) いゝ気味だ ひどくしよげてしまつた ちゞまつてしまつたちひさくなつてしまつた ひからびてしまつた 四角な背嚢ばかりのこり たゞ一かけの ざまを見ろじつに 背嚢なんかなにを入れてあるのだ 保安掛り じつにかあいさうです カムチヤツカの蟹の缶詰と ぬれた大きな靴が片つ方 それと赤鼻紳士の金鎖 どうでもいゝ 実にいゝ空気だ ほんたうに液体のやうな空気だ (ウーイ 神はほめられよ みちからのたたふべきかな ウーイ いゝ空気だ) そらの ひかりはすこしもとまらない だからあんなにまつくらだ 太陽がくらくらまはつてゐるにもかゝはらず おれは数しれぬほしのまたたきを見る ことにもしろいマヂエラン星雲 草はみな葉緑素を恢復し 葡萄糖を含む もうよろこびの脈さへうつ 泥炭がなにかぶつぶつ言つてゐる (もしもし 牧師さん あの馳せ出した雲をごらんなさい まるで天の競馬のサラアブレツドです) (うん きれいだな 雲だ 競馬だ 天のサラアブレツドだ 雲だ) あらゆる変幻の色彩を示し ……もうおそい ほめるひまなどない 虹彩はあはく変化はゆるやか いまは一むらの軽い 零下二千度の すつととられて消えてしまふ それどこでない おれのステツキは いつたいどこへ行つたのだ 上着もいつかなくなつてゐる チヨツキはたつたいま消えて行つた 恐るべくかなしむべき真空溶媒は こんどはおれに働きだした まるで熊の胃袋のなかだ それでもどうせ質量不変の定律だから べつにどうにもなつてゐない といつたところでおれといふ この明らかな牧師の意識から ぐんぐんものが消えて行くとは情ない (いやあ 奇遇ですな) (おお 赤鼻紳士 たうとう犬がおつかまりでしたな) (ありがたう しかるに あなたは一体どうなすつたのです) (上着をなくして大へん寒いのです) (なるほど はてな あなたの上着はそれでせう) (どれですか) (あなたが着ておいでになるその上着) (なるほど ははあ 真空のちよつとした (えゝ さうですとも ところがどうもをかしい それはわたしの金鎖ですがね) (えゝどうせその泥炭の保安掛りの作用です) (ははあ 泥炭のちよつとした (さうですとも 犬があんまりくしやみをしますが大丈夫ですか) (なあにいつものことです) (大きなもんですな) (これは北極犬です) (馬の代りには使へないんですか) (使へますとも どうです お召しなさいませんか) (どうもありがたう そんなら拝借しますかな) (さあどうぞ) おれはたしかに その北極犬のせなかにまたがり 犬神のやうに東へ歩き出す まばゆい緑のしばくさだ おれたちの影は青い沙漠 そしてそこはさつきの こんな華奢な水平な枝に 硝子のりつぱなわかものが すつかり三角になつてぶらさがる ((一九二二、五、一八))
[#改ページ](えゝ 水ゾルですよ おぼろな 日は 赤いちひさな 水とひかりをからだにまとひ ひとりでをどりをやつてゐる (えゝ ことにもアラベスクの飾り文字) 羽むしの死骸 いちゐのかれ葉 真珠の泡に ちぎれたこけの花軸など (ナチラナトラのひいさまは いまみづ底のみかげのうへに 黄いろなかげとおふたりで せつかくをどつてゐられます いゝえ けれども すぐでせう まもなく浮いておいででせう) 赤い とがつた二つの耳をもち 燐光珊瑚の環節に 正しく飾る真珠のぼたん くるりくるりと廻つてゐます (えゝ ことにもアラベスクの飾り文字) 背中きらきら ちからいつぱいまはりはするが 真珠もじつはまがひもの ガラスどころか空気だま (いゝえ それでも エイト ガムマア イー スイツクス アルフア ことにもアラベスクの飾り文字) 水晶体や オペラグラスにのぞかれて をどつてゐるといはれても 真珠の泡を苦にするのなら おまへもさつぱりらくぢやない それに日が雲に入つたし わたしは石に座つてしびれが切れたし 水底の黒い木片は毛虫か それに第一おまへのかたちは見えないし ほんとに溶けてしまつたのやら それともみんなはじめから おぼろに青い夢だやら (いゝえ あすこにおいでです おいでです ひいさま いらつしやいます ことにもアラベスクの飾り文字) ふん 水はおぼろで ひかりは惑ひ 虫は エイト ガムマア イー スイツクス アルフア ことにもアラベスクの飾り文字かい ハツハツハ (はい まつたくそれにちがひません エイト ガムマア イー スイツクス アルフア ことにもアラベスクの飾り文字) (一九二二、五、二〇)
[#改丁][#ページの左右中央] [#改ページ] わたくしはずゐぶんすばやく汽車からおりた そのために雲がぎらつとひかつたくらゐだ けれどももつとはやいひとはある 化学の並川さんによく あのオリーブのせびろなどは そつくりおとなしい農学士だ さつき盛岡のていしやばでも たしかにわたくしはさうおもつてゐた このひとが砂糖水のなかの つめたくあかるい待合室から ひとあしでるとき……わたくしもでる 馬車がいちだいたつてゐる 黒塗りのすてきな馬車だ 馬も上等のハツクニー このひとはかすかにうなづき それからじぶんといふ小さな荷物を 載つけるといふ 馬車にのぼつてこしかける (わづかの光の その すこし屈んでしんとしてゐる わたくしはあるいて馬と並ぶ これはあるいは客馬車だ どうも農場のらしくない わたくしにも乗れといへばいい 馭者がよこから呼べばいい 乗らなくたつていゝのだが これから五里もあるくのだし くらかけ山の下あたりで ゆつくり時間もほしいのだ あすこなら空気もひどく明瞭で 樹でも艸でもみんな幻燈だ もちろんおきなぐさも咲いてゐるし 野はらは黒ぶだう わたくしを款待するだらう そこでゆつくりとどまるために 本部まででも乗つた方がいい 今日ならわたくしだつて 馬車に乗れないわけではない (あいまいな思惟の きつといつでもかうなのだ) もう馬車がうごいてゐる (これがじつにいゝことだ どうしようか考へてゐるひまに それが過ぎて ひらつとわたくしを通り越す みちはまつ黒の腐植土で 馬はピンと耳を立て その いかにもきさくに馳けて行く うしろからはもうたれも来ないのか つつましく肩をすぼめた停車 新開地風の ガラス障子はありふれてでこぼこ わらぢや sun-maid のから函や 夏みかんのあかるいにほひ 汽車からおりたひとたちは さつきたくさんあつたのだが みんな丘かげの茶褐部落や 西にまがつて見えなくなつた いまわたくしは歩測のときのやう しんかい地ふうのたてものは みんなうしろに片 そしてこここそ畑になつてゐる 黒馬が二ひき汗でぬれ ひはいろのやはらかな山のこつちがはだ 山ではふしぎに風がふいてゐる ずうつと遠くのくらいところでは 鶯もごろごろ啼いてゐる その透明な群青のうぐひすが (ほんたうの鶯の方はドイツ読本の ハンスがうぐひすでないよと云つた) 馬車はずんずん遠くなる 大きくゆれるしはねあがる 紳士もかろくはねあがる このひとはもうよほど世間をわたり いまは青ぐろいふちのやうなとこへ すましてこしかけてゐるひとなのだ そしてずんずん遠くなる はたけの馬は二ひき ひとはふたりで赤い 雲に いよいよあかく 冬にきたときとはまるでべつだ みんなすつかり変つてゐる 変つたとはいへそれは雪が往き 雲が 幹や芽のなかに燐光や あをじろい春になつただけだ それよりもこんなせはしい心象の明滅をつらね すみやかなすみやかな 小岩井のきれいな野はらや牧場の標本が いかにも確かに どんなに新鮮な奇蹟だらう ほんたうにこのみちをこの前行くときは 空気がひどく稠密で つめたくそしてあかる過ぎた 今日は七つ森はいちめんの 松木がをかしな緑褐に 丘のうしろとふもとに生えて 大へん陰欝にふるびて見える たむぼりんも遠くのそらで鳴つてるし 雨はけふはだいぢやうぶふらない しかし馬車もはやいと云つたところで そんなにすてきなわけではない いままでたつてやつとあすこまで ここからあすこまでのこのまつすぐな 火山灰のみちの分だけ行つたのだ あすこはちやうどまがり目で すがれの草 (山は青い雲でいつぱい 光つてゐるし かけて行く馬車はくろくてりつぱだ) ひばり ひばり 銀の たつたいまのぼつたひばりなのだ くろくてすばやくきんいろだ そらでやる Brownian movement おまけにあいつの 甲虫のやうに四まいある 飴いろのやつと硬い漆ぬりの方と たしかに よほど上手に鳴いてゐる そらのひかりを呑みこんでゐる 光波のために溺れてゐる もちろんずつと遠くでは もつとたくさんないてゐる そいつのはうははいけいだ 向ふからはこつちのやつがひどく勇敢に見える うしろから五月のいまごろ 黒いながいオーヴアを着た 医者らしいものがやつてくる たびたびこつちをみてゐるやうだ それは一本みちを行くときに ごくありふれたことなのだ 冬にもやつぱりこんなあんばいに くろいイムバネスがやつてきて 本部へはこれでいいんですかと 遠くからことばの でこぼこのゆきみちを 辛うじて 本部へはこれでいゝんですかと おれはぶつきら棒にああと言つただけなので ちやうどそれだけ けふのはもつと遠くからくる もう入口だ〔小岩井農場〕 (いつものとほりだ) 〔もの売りきのことりお断り申し候〕 (いつものとほりだ ぢき医院もある) 〔禁猟区〕 ふん いつものとほりだ 小さな沢と青い 沢では水が暗くそして また鉄ゼルの fluorescence 向ふの 白樺は いつかおれは羽田県属に言つてゐた ここはよつぽど高いから 柳沢つづきの一帯だ やつぱり好摩にあたるのだ どうしたのだこの鳥の声は なんといふたくさんの鳥だ 鳥の小学校にきたやうだ 雨のやうだし湧いてるやうだ 居る居る鳥がいつぱいにゐる なんといふ数だ 鳴く鳴く鳴く Rondo Capriccioso ぎゆつくぎゆつくぎゆつくぎゆつく あの木のしんにも一ぴきゐる 禁猟区のためだ 飛びあがる (禁猟区のためでない ぎゆつくぎゆつく) 一ぴきでない ひとむれだ 十疋以上だ 弧をつくる (ぎゆつく ぎゆつく) 三またの槍の穂 弧をつくる 青びかり青びかり のぼせるくらゐだこの鳥の声 (その音がぼつとひくくなる うしろになつてしまつたのだ あるいはちゆういのりずむのため 両方ともだ とりのこゑ) 木立がいつか並樹になつた この設計は けれども偶然だからしかたない 荷馬車がたしか三台とまつてゐる あたらしいテレピン油の 一台だけがあるいてゐる けれどもこれは樹や枝のかげでなくて しめつた黒い腐植質と さくらの並樹になつたのだ こんなしづかなめまぐるしさ この荷馬車にはひとがついてゐない 馬は払ひ下げの立派なハツクニー 脚のゆれるのは年老つたため (おい ヘングスト しつかりしろよ 三日月みたいな眼つきをして おまけになみだがいつぱいで 陰気にあたまを下げてゐられると おれはまつたくたまらないのだ 威勢よく桃いろの舌をかみふつと鼻を鳴らせ) ぜんたい馬の眼のなかには複雑なレンズがあつて けしきやみんなへんにうるんでいびつにみえる…… ……馬車挽きはみんなといつしよに 向ふのどてのかれ草に 腰をおろしてやすんでゐる 三人赤くわらつてこつちをみ また一人は大股にどてのなかをあるき なにか忘れものでももつてくるといふ 桜の木には 天狗巣ははやくも青い葉をだし 馬車のラツパがきこえてくれば ここが一ぺんにスヰツツルになる 遠くでは鷹がそらを截つてゐるし からまつの芽はネクタイピンにほしいくらゐだし いま向ふの並樹をくらつと青く走つて行つたのは (騎手はわらひ) 本部の 桜やポプラのこつちに立ち そのさびしい観測台のうへに ロビンソン風力計の小さな椀や ぐらぐらゆれる風信器を わたくしはもう見出さない さつきの いまごろどこかで忘れたやうにとまつてようし 五月の黒いオーヴアコートも どの建物かにまがつて行つた 冬にはこゝの凍つた池で こどもらがひどくわらつた (から松はとびいろのすてきな脚です 向ふにひかるのは雲でせうか粉雪でせうか それとも野はらの雪に日が照つてゐるのでせうか 氷滑りをやりながらなにがそんなにをかしいのです おまへさんたちの頬つぺたはまつ赤ですよ) 葱いろの春の水に はたけは茶いろに掘りおこされ 廐肥も四角につみあげてある 並樹ざくらの天狗巣には いぢらしい小さな緑の旗を出すのもあり 遠くの縮れた雲にかかるのでは みづみづした鶯いろの弱いのもある…… あんまりひばりが啼きすぎる (育馬部と本部とのあひだでさへ ひばりやなんか一ダースできかない) そのキルギス式の逞ましい耕地の線が ぐらぐらの雲にうかぶこちら みじかい素朴な電話ばしらが 右にまがり左へ傾きひどく乱れて まがりかどには一本の青木 (白樺だらう 楊ではない) 耕耘部へはここから行くのがちかい ふゆのあひだだつて雪がかたまり (ゆきがかたくはなかつたやうだ なぜならそりはゆきをあげた たしかに酵母のちんでんを 冴えた気流に吹きあげた) あのときはきらきらする雪の移動のなかを ひとはあぶなつかしいセレナーデを口笛に吹き 往つたりきたりなんべんしたかわからない (四列の茶いろな けれどもあの調子はづれのセレナーデが 風やときどきぱつとたつ雪と どんなによくつりあつてゐたことか それは雪の日のアイスクリームとおなじ (もつともそれなら muscovite も少しそつぽに おれたちには見られないぜい 春のヴアンダイクブラウン きれいにはたけは耕耘された 雲はけふも そのまばゆい ひばりはしきりに啼いてゐる (雲の それから眼をまたあげるなら 灰いろなもの走るもの蛇に似たもの 雉子だ あんまり長い尾をひいてうららかに過ぎれば もう一疋が飛びおりる 山鳥ではない (山鳥ですか? 山で? 夏に?) あるくのははやい 流れてゐる オレンヂいろの日光のなかを 雉子はするするながれてゐる 啼いてゐる それが雉子の声だ いま見はらかす耕地のはづれ 向ふの青草の高みに四五本乱れて なんといふ気まぐれなさくらだらう みんなさくらの幽霊だ 内面はしだれやなぎで (空でひとむらの それらかゞやく氷片の 青らむ天のうつろのなかへ かたなのやうにつきすすみ すべて水いろの哀愁を さびしい いま日を横ぎる黒雲は その氾濫の水けむりからのぼつたのだ たれも見てゐないその地質時代の林の底を 水は濁つてどんどんながれた いまこそおれはさびしくない たつたひとりで生きて行く こんなきままなたましひと たれがいつしよに行けようか 大びらにまつすぐに進んで それでいけないといふのなら 田舎ふうのダブルカラなど引き裂いてしまへ それからさきがあんまり青黒くなつてきたら…… そんなさきまでかんがへないでいい ちからいつぱい口笛を吹け 口笛をふけ たよりもない光波のふるひ すきとほるものが一列わたくしのあとからくる ひかり かすれ またうたふやうに小さな胸を張り またほのぼのとかゞやいてわらふ みんなすあしのこどもらだ ちらちら めいめい遠くのうたのひとくさりづつ これらはあるいは天の (五本の透明なさくらの木は 青々とかげろふをあげる) わたくしは白い雑嚢をぶらぶらさげて きままな林務官のやうに 五月のきんいろの外光のなかで 口笛をふき歩調をふんでわるいだらうか たのしい太陽系の春だ みんなはしつたりうたつたり はねあがつたりするがいい (コロナは八十三万二百……) あの四月の実習のはじめの日 液肥をはこぶいちにちいつぱい 光炎菩薩太陽マヂツクの歌が鳴つた (コロナは八十三万四百……) ああ陽光のマヂツクよ ひとつのせきをこえるとき ひとりがかつぎ棒をわたせば それは太陽のマヂツクにより 磁石のやうにもひとりの手に吸ひついた (コロナは七十七万五千……) どのこどもかが笛を吹いてゐる それはわたくしにきこえない けれどもたしかにふいてゐる (ぜんたい笛といふものは きまぐれなひよろひよろの酋長だ) みちがぐんぐんうしろから湧き 過ぎて来た方へたたんで行く むら気な四本の桜も 記憶のやうにとほざかる たのしい地球の気圏の春だ みんなうたつたりはしつたり はねあがつたりするがいい とびいろのはたけがゆるやかに傾斜して すきとほる雨のつぶに洗はれてゐる そのふもとに白い笠の農夫が立ち つくづくとそらのくもを見あげ こんどはゆつくりあるきだす (まるで行きつかれたたび人だ) 汽車の時間をたづねてみよう こゝはぐちやぐちやした青い湿地で もうせんごけも生えてゐる (そのうすあかい毛もちゞれてゐるし どこかのがまの生えた沼地を ネー将軍 泥に一尺ぐらゐ踏みこんで すぱすぱ渉つて進軍もした) 雲は白いし農夫はわたしをまつてゐる またあるきだす(縮れてぎらぎらの雲) トツパースの雨の高みから けらを着た女の子がふたりくる シベリヤ風に赤いきれをかぶり まつすぐにいそいでやつてくる (Miss Robin)働きにきてゐるのだ 農夫は富士見の飛脚のやうに 笠をかしげて立つて待ち 白い手甲さへはめてゐる もう二十米だから しばらくあるきださないでくれ じぶんだけせつかく待つてゐても 用がなくてはこまるとおもつて あんなにぐらぐらゆれるのだ (青い草穂は去年のだ) あんなにぐらぐらゆれるのだ さはやかだし顔も見えるから ここからはなしかけていゝ シヤツポをとれ(黒い羅紗もぬれ) このひとはもう五十ぐらゐだ (ちよつとお 盛岡行ぎ汽車なん時だべす) (三時だたべが) ずゐぶん悲しい顔のひとだ 博物館の能面にも出てゐるし どこかに鷹のきもちもある うしろのつめたく白い空では ほんたうの鷹がぶうぶう風を截る 雨をおとすその はたけに置かれた二台のくるま このひとはもう行かうとする 白い種子は ( (あんいま この ひじやうに恐ろしくひどいことが そつちにあるとおもつてゐる そこには馬のつかない けはしく翔ける鼠いろの雲ばかり こはがつてゐるのは やつぱりあの (こやし入れだのすか (あんさうす) (ずゐぶん気持のいゝ (ふう) この人はわたくしとはなすのを なにか大へんはばかつてゐる それはふたつのくるまのよこ はたけのをはりの ぐらぐらの空のこつち側を すこし くろい外套の男が 雨雲に銃を構へて立つてゐる あの男がどこか気がへんで 急に鉄砲をこつちへ向けるのか あるいは Miss Robin たちのことか それとも両方いつしよなのか どつちも心配しないでくれ わたしはどつちもこはくない やつてるやつてるそらで鳥が (あの鳥何て云ふす 此処らで) (ぶどしぎ) (ぶどしぎて云ふのか) (あん 曇るづどよぐ出はら) から松の芽の かけて行く雲のこつちの またもつたいらしく銃を構へる (三時の次あ何時だべす) (五時だべが ゆぐ知らない) 過燐酸石灰のヅツク袋 学校のは十五%だ 雨はふるしわたくしの黄いろな仕事着もぬれる 遠くのそらではそのぼとしぎどもが 大きく口をあいてビール瓶のやうに鳴り 灰いろの咽喉の粘膜に風をあて めざましく雨を飛んでゐる 少しばかり青いつめくさの交つた かれくさと雨の雫との上に さつきの娘たちがねむつてゐる 射手は肩を怒らして銃を構へる (ぼとしぎのつめたい発動機は……) ぼとしぎはぶうぶう鳴り いつたいなにを射たうといふのだ 爺さんの行つた方から わかい農夫がやつてくる かほが赤くて新鮮にふとり セシルローズ型の円い肩をかゞめ 燐酸のあき袋をあつめてくる 二つはちやんと肩に着てゐる (降つてげだごとなさ) (なあにすぐ霽れらんす) 火をたいてゐる 赤い焔もちらちらみえる 農夫も戻るしわたくしもついて行かう これらのからまつの小さな芽をあつめ わたくしの童話をかざりたい ひとりのむすめがきれいにわらつて起きあがる みんなはあかるい雨の中ですうすうねむる (うな いいをなごだもな) にはかにそんなに大声にどなり まつ赤になつて石臼のやうに笑ふのは このひとは案外にわかいのだ すきとほつて火が燃えてゐる 青い炭素のけむりも立つ わたくしもすこしあたりたい (おらも (いてす さあおあだりやんせ) (汽車三時すか) (三時四十分 まだ一時にもならないも) 火は雨でかへつて燃える ぼとしぎどもは鳴らす鳴らす すつかりぬれた 寒い がたがたする すきとほつてゆれてゐるのは さつきの わたくしはそれを知つてゐるけれども 眼にははつきり見てゐない たしかにわたくしの感官の つめたい雨がそそいでゐる (天の微光にさだめなく うかべる石をわがふめば おゝユリア しづくはいとど降りまさり カシオペーアはめぐり行く) ユリアがわたくしの左を行く 大きな紺いろの瞳をりんと張つて ユリアがわたくしの左を行く ペムペルがわたくしの右にゐる ……………はさつき横へ あのから松の列のとこから横へ外れた ((幻想が向ふから迫つてくるときは もうにんげんの壊れるときだ)) わたくしははつきり眼をあいてあるいてゐるのだ ユリア ペムペル わたくしの遠いともだちよ わたくしはずゐぶんしばらくぶりで きみたちの巨きなまつ白なすあしを見た どんなにわたくしはきみたちの昔の足あとを 白堊系の頁岩の古い海岸にもとめただらう ((あんまりひどい幻想だ)) わたくしはなにをびくびくしてゐるのだ どうしてもどうしてもさびしくてたまらないときは ひとはみんなきつと斯ういふことになる きみたちとけふあふことができたので わたくしはこの巨きな旅のなかの一つづりから 血みどろになつて遁げなくてもいいのです (ひばりが居るやうな居ないやうな 腐植質から麦が生え 雨はしきりに降つてゐる) さうです 農場のこのへんは まつたく不思議におもはれます どうしてかわたくしはここらを der heilige Punkt と 呼びたいやうな気がします この冬だつて耕耘部まで用事で来て こゝいらの匂のいゝふぶきのなかで なにとはなしに聖いこころもちがして 凍えさうになりながらいつまでもいつまでも いつたり来たりしてゐました さつきもさうです どこの子どもらですかあの瓔珞をつけた子は ((そんなことでだまされてはいけない ちがつた空間にはいろいろちがつたものがゐる それにだいいちさつきからの考へやうが まるで銅版のやうなのに気がつかないか)) 雨のなかでひばりが鳴いてゐるのです あなたがたは赤い瑪瑙の棘でいつぱいな野はらも その貝殻のやうに白くひかり 底の平らな巨きなすあしにふむのでせう もう決定した そつちへ行くな これらはみんなただしくない いま疲れてかたちを更へたおまへの信仰から 発散して酸えたひかりの澱だ ちひさな自分を劃ることのできない この不可思議な大きな心象宙宇のなかで もしも正しいねがひに燃えて じぶんとひとと万象といつしよに 至上福祉にいたらうとする それをある宗教情操とするならば そのねがひから砕けまたは疲れ じぶんとそれからたつたもひとつのたましひと 完全そして永久にどこまでもいつしよに行かうとする この変態を恋愛といふ そしてどこまでもその方向では 決して求め得られないその恋愛の本質的な部分を むりにもごまかし求め得ようとする この傾向を性慾といふ すべてこれら漸移のなかのさまざまな過程に従つて さまざまな眼に見えまた見えない生物の種類がある この命題は可逆的にもまた正しく わたくしにはあんまり恐ろしいことだ けれどもいくら恐ろしいといつても それがほんたうならしかたない さあはつきり眼をあいてたれにも見え 明確に物理学の法則にしたがふ これら実在の現象のなかから あたらしくまつすぐに起て 明るい雨がこんなにたのしくそそぐのに 馬車が行く 馬はぬれて黒い ひとはくるまに立つて行く もうけつしてさびしくはない なんべんさびしくないと云つたとこで またさびしくなるのはきまつてゐる けれどもここはこれでいいのだ すべてさびしさと悲傷とを焚いて ひとは透明な軌道をすすむ ラリツクス ラリツクス いよいよ青く 雲はますます縮れてひかり わたくしはかつきりみちをまがる (一九二二、五、二一)
[#改丁][#ページの左右中央] [#改ページ] そら ね ごらん むかふに霧にぬれてゐる あすこのとこへ わたしのかんがへが ずゐぶんはやく流れて行つて みんな 溶け込んでゐるのだよ こゝいらはふきの花でいつぱいだ (一九二二、六、四)
[#改ページ](まちはづれのひのきと青いポプラ) 霧のなかからにはかにあかく燃えたのは しゆつと擦られたマツチだけれども ずゐぶん拡大されてゐる スヰヂツシ安全マツチだけれども よほど酸素が多いのだ (明方の霧のなかの電燈は まめいろで匂もいゝし 小学校長をたかぶつて散歩することは まことにつつましく見える) (一九二二、六、四)
[#改ページ]風とひのきのひるすぎに 小田中はのびあがり あらんかぎり手をのばし 灰いろのゴムのまり 光の標本を 受けかねてぽろつとおとす (一九二二、六、七)
[#改ページ](ゆれるゆれるやなぎはゆれる) 雲は来るくる南の地平 そらのエレキを寄せてくる 鳥はなく啼く青木のほずゑ くもにやなぎのくわくこどり (ゆれるゆれるやなぎはゆれる) 雲がちぎれて日ざしが降れば 気圏日本のひるまの底の 泥にならべるくさの列 (ゆれるゆれるやなぎはゆれる) 雲はくるくる日は銀の盤 エレキづくりのかはやなぎ 風が通ればさえ 馬もはねれば黒びかり (ゆれるゆれるやなぎはゆれる) 雲がきれたかまた日がそそぐ 土のスープと草の列 黒くをどりはひるまの 泥のコロイドその底に (ゆれるゆれるやなぎはゆれる) りんと立て立て青い槍の葉 たれを刺さうの槍ぢやなし ひかりの底でいちにち日がな 泥にならべるくさの列 (ゆれるゆれるやなぎはゆれる) 雲がちぎれてまた夜があけて そらは 風に霧ふくぶりきのやなぎ くもにしらしらそのやなぎ (ゆれるゆれるやなぎはゆれる) りんと立て立て青い槍の葉 そらはエレキのしろい網 かげとひかりの六月の底 気圏日本の青野原 (ゆれるゆれるやなぎはゆれる) ((一九二二、六、一二))
[#改ページ]さつき火事だとさわぎましたのは虹でございました もう一時間もつづいてりんと張つて居ります (一九二二、六、一五)
[#改ページ]あの林は あんまり それでも自然ならしかたないが また多少プウルキインの現象にもよるやうだが も少しそらから どうだらう ああ何といふいい精神だ 株式取引所や議事堂でばかり フロツクコートは着られるものでない むしろこんな まつ ホルスタインの よく適合し効果もある 何といふいい精神だらう たとへそれが あるいはすこし暑くもあらうが あんなまじめな直立や 風景のなかの敬虔な人間を わたくしはいままで見たことがない (一九二二、六、二五)
[#改ページ]そらの 古ぼけて黒くゑぐるもの ひかりの きたなくしろく (一九二二、六、二七)
[#改ページ]海だべがど おら おもたれば やつぱり光る山だたぢやい ホウ (一九二二、六、二七)
[#改ページ]ラリツクスの青いのは 木の新鮮と神経の性質と両方からくる そのとき展望車の藍いろの紳士は X型のかけがねのついた帯革をしめ すきとほつてまつすぐにたち 病気のやうな顔をして ひかりの山を見てゐたのだ (一九二二、六、二七)
[#改ページ]こいつはもう あんまり明るい 白樺も芽をふき からすむぎも 農舎の屋根も 馬もなにもかも 光りすぎてまぶしくて (よくおわかりのことでせうが たしかとどまつに似て居ります) まぶし過ぎて 空気さへすこし痛いくらゐです (一九二二、六、二七)
[#改ページ]トンネルへはひるのでつけた電燈ぢやないのです 車掌がほんのおもしろまぎれにつけたのです こんな豆ばたけの風のなかで なあに 山火事でござんせう なあに 山火事でござんせう あんまり大きござんすから はてな 向ふの光るあれは雲ですな 木きつてゐますな いゝえ やつぱり山火事でござんせう おい きさま 日本の萱の野原をゆくビクトルカランザの配下 帽子が風にとられるぞ こんどは青い きさまの馬はもう汗でぬれてゐる (一九二二、八、一七)
[#改ページ]黄の風車まはるまはる いつぽんすぎは たうとう幹がくつついて 険しい 鳥も棲んではゐますけれど (一九二二、八、一七)
[#改ページ]dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah こんや アルペン農の 高原の風とひかりにさゝげ 気圏の戦士わが 青らみわたる 楢と ひのきの髪をうちゆすり まるめろの匂のそらに あたらしい星雲を燃せ dah-dah-sko-dah-dah 筋骨はつめたい炭酸に 敬虔に年を こんや銀河と森とのまつり さらにも強く鼓を鳴らし うす月の雲をどよませ Ho! Ho! Ho! むかし まつくらくらの二里の わたるは夢と 首は刻まれ漬けられ アンドロメダもかゞりにゆすれ 青い 太刀を浴びてはいつぷかぷ 夜風の底の 胃袋はいてぎつたぎた dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah さらにただしく 赤ひたたれを地にひるがへし dah-dah-dah-dahh 月は 打つも 太刀の dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah 太刀は 獅子の 消えてあとない 打つも果てるもひとつのいのち dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah ((一九二二、八、三一))
[#改ページ]あめと雲とが地面に垂れ すすきの赤い穂も洗はれ 野原はすがすがしくなつたので 百の 掠奪のために田にはひり うるうるうるうると飛び 雲と雨とのひかりのなかを すばやく 百の碍子にもどる雀 (一九二二、九、七)
[#改ページ]おお 何といふ立派な楢だ 緑の 雨にぬれてまつすぐに立つ緑の 栗の木ばやしの青いくらがりに しぶきや雨にびしやびしや洗はれてゐる その長いものは一体舟か それともそりか あんまりロシヤふうだよ 沼に生えるものはやなぎやサラド きれいな (一九二二、九、七)
[#改ページ]でんしんばしらの気まぐれ碍子の修繕者 雲とあめとの下のあなたに忠告いたします それではあんまりアラビアンナイト型です からだをそんなに黒くかつきり鍵にまげ 外套の裾もぬれてあやしく垂れ ひどく手先を動かすでもないその修繕は あんまりアラビアンナイト型です あいつは悪魔のためにあの上に つけられたのだと云はれたとき どうあなたは弁解をするつもりです (一九二二、九、七)
[#改ページ]あめの稲田の中を行くもの 雲と山との陰気のなかへ歩くもの もつと合羽をしつかりしめろ (一九二二、九、七)
[#改ページ]煩悶ならば 雨の降るとき 竹と (おまへこそ髪を刈れ) 竹と楢との青い林の中がいいのです (おまへこそ髪を刈れ そんな髪をしてゐるから そんなことも考へるのだ) (一九二二、九、七)
[#改ページ]おい 銅線をつかつたな とんぼのからだの銅線をつかひ出したな はんのき はんのき 交錯 気圏日本では たうとう電線に銅をつかひ出した (光るものは碍子 過ぎて行くものは赤い萱の穂) (一九二二、九、一七)
[#改ページ]から松のしんは 柏の木の (ひるの鳥は曠野に啼き あざみは青い棘に 太陽が梢に発射するとき 暗い林の入口にひとりたたずむものは 四角な若い樺の木で Green Dwarf といふ品種 日光のために燃え尽きさうになりながら 燃えきらず青くけむるその木 羽虫は一疋づつ光り 鞍掛や銀の錯乱 (寛政十一年は百二十年前です) そらの魚の (一九二二、九、一七)
[#改丁][#ページの左右中央] [#改ページ] 月は水銀 火山 火口の たれもみんな愕くはずだ (風としづけさ) いま 頂上の石標もある (月光は水銀 月光は水銀) ((こんなことはじつにまれです 向ふの黒い山……つて それですか それはここのつづきです ここのつづきの外輪山です あすこのてつぺんが絶頂です 向ふの? 向ふのは御室火口です これから外輪山をめぐるのですけれども いまはまだなんにも見えませんから もすこし明るくなつてからにしませう えゝ 太陽が出なくても あかるくなつて 西岩手火山のはうの火口湖やなにか 見えるやうにさへなればいいんです お日さまはあすこらへんで拝みます)) 黒い絶頂の右肩と そのときのまつ赤な太陽 わたくしは見てゐる あんまり真赤な幻想の太陽だ ((いまなん時です 三時四十分? ちやうど一時間 いや四十分ありますから 寒いひとは提灯でも持つて この岩のかげに居てください)) ああ 暗い雲の海だ ((向ふの黒いのはたしかに早池峰です 線になつて浮きあがつてるのは北上山地です うしろ? あれですか あれは雲です 柔らかさうですね 雲が駒ヶ岳に被さつたのです 水蒸気を含んだ風が 駒ヶ岳にぶつつかつて 上にあがり あんなに雲になつたのです けれども 夜が明けたら見えるかもしれませんよ)) (柔かな雲の波だ あんな大きなうねりなら 月光会社の五千噸の汽船も 動揺を感じはしないだらう その質は 蛋白石 glass-wool あるいは水酸化礬土の沈澱) ((じつさいこんなことは稀なのです わたくしはもう十何べんも来てゐますが こんなにしづかで そして暖かなことはなかつたのです 麓の谷の底よりも さつきの九合の小屋よりも 却つて暖かなくらゐです 今夜のやうなしづかな晩は つめたい空気は下へ沈んで 霜さへ降らせ 暖い空気は 上に浮んで来るのです これが気温の逆転です)) 御室火口の 月のあかりに照らされてゐるのか それともおれたちの提灯のあかりか 提灯だといふのは勿体ない ひはいろで暗い ((それではもう四十分ばかり 寄り合つて待つておいでなさい さうさう 北はこつちです 北斗七星は いま山の下の方に落ちてゐますが 北斗星はあれです それは小熊座といふ あの七つの中なのです それから向ふに 縦に三つならんだ星が見えませう 下には斜めに房が下つたやうになり 右と左とには 赤と青と大きな星がありませう あれはオリオンです オライオンです あの房の下のあたりに 星雲があるといふのです いま見えません その下のは大犬のアルフア 冬の晩いちばん光つて 夏の蝎とうら表です さあみなさん ご勝手におあるきなさい 向ふの白いのですか 雪ぢやありません けれども行つてごらんなさい まだ一時間もありますから 私もスケツチをとります)) はてな わたくしの帳面の 書いた分がたつた三枚になつてゐる 事によると月光のいたづらだ 藤原が提灯を見せてゐる ああ頁が折れ込んだのだ さあでは私はひとり行かう 外輪山の自然な美しい歩道の上を 月の半分は ((お月さまには黒い処もある)) ((後 私のひとりごとの反響に 小田島 ((山中鹿之助だらう)) もうかまはない 歩いていゝ どつちにしてもそれは 二十五日の月のあかりに照らされて 薬師火口の外輪山をあるくとき わたくしは地球の華族である 蛋白石の雲は遥にたゝへ オリオン 金牛 もろもろの星座 澄み切り澄みわたつて 瞬きさへもすくなく わたくしの額の上にかがやき さうだ オリオンの右肩から ほんたうに鋼青の壮麗が ふるへて私にやつて来る 三つの提灯は夢の火口原の 白いとこまで降りてゐる ((雪ですか 雪ぢやないでせう)) 困つたやうに返事してゐるのは 雪でなく 仙人草のくさむらなのだ さうでなければ 残りの一つの提灯は 一升のところに停つてゐる それはきつと河村慶助が 外套の袖にぼんやり手を引つ込めてゐる 噴火口へでも入つてごらんなさい 硫黄のつぶは拾へないでせうが)) 斯んなによく声がとゞくのは メガホーンもしかけてあるのだ しばらく躊躇してゐるやうだ ((先生 中さ ((えゝ おはひりなさい 大丈夫です)) 提灯が三つ沈んでしまふ そのでこぼこのまつ黒の線 すこしのかなしさ けれどもこれはいつたいなんといふいゝことだ 大きな帽子をかぶり ちぎれた繻子のマントを着て 薬師火口の外輪山の しづかな月明を行くといふのは この石標は 下向の道と書いてあるにさうゐない 火口のなかから提灯が出て来た 宮沢の声もきこえる 雲の海のはてはだんだん平らになる それは一つの 雲平線をつくるのだといふのは 月のひかりのひだりから みぎへすばやく擦過した 一つの夜の幻覚だ いま火口原の中に 一点しろく わたくしを呼んでゐる呼んでゐるのか 私は気圏オペラの役者です 鉛筆のさやは光り 速かに指の黒い影はうごき 唇を円くして立つてゐる私は たしかに気圏オペラの役者です また月光と火山塊のかげ 向ふの黒い巨きな壁は 熔岩か集塊岩 力強い肩だ とにかく夜があけてお鉢廻りのときは あすこからこつちへ出て来るのだ なまぬるい風だ これが気温の逆転だ (つかれてゐるな わたしはやつぱり睡いのだ) 火山弾には黒い影 その 幾条かの軌道のあと 鳥の声! 鳥の声! 海抜六千八百尺の 月明をかける鳥の声 鳥はいよいよしつかりとなき 私はゆつくりと踏み 月はいま二つに見える やつぱり疲れからの乱視なのだ かすかに光る火山塊の一つの面 オリオンは 月のまはりは熟した瑪瑙と葡萄 あくびと月光の (あんまりはねあるぐなぢやい みんなのデカンシヨの声も聞える 月のその銀の角のはじが 潰れてすこし円くなる 天の海とオーパルの雲 あたたかい空気は ふつと きつと屈折率も低く 濃い また水を加へたやうなのだらう 東は淀み また口笛を吹いてゐる わたくしも戻る わたくしの影を見たのか提灯も戻る (その影は鉄いろの背景の ひとりの修羅に見える筈だ) さう考へたのは間違ひらしい とにかくあくびと影ぼふし 空のあの辺の星は微かな散点 すなはち空の模様がちがつてゐる そして今度は月が (一九二二、九、一八)
[#改ページ](犬、マサニエロ等) なぜ吠えるのだ 二疋とも 吠えてこつちへかけてくる (夜明けのひのきは心象のそら) 頭を下げることは犬の 尾をふることはこはくない それだのに なぜさう本気に吠えるのだ その 一ぴきは灰色錫 一ぴきの尾は茶の草穂 うしろへまはつてうなつてゐる わたくしの歩きかたは不正でない それは犬の中の狼のキメラがこはいのと もひとつはさしつかへないため 犬は薄明に溶解する うなりの尖端にはエレキもある いつもあるくのになぜ吠えるのだ ちやんと顔を見せてやれ ちやんと顔を見せてやれと 誰かとならんであるきながら 犬が吠えたときに云ひたい 帽子があんまり大きくて おまけに下を向いてあるいてきたので 吠え出したのだ (一九二二、九、二七)
[#改ページ]城のすすきの波の上には 伊太利亜製の空間がある そこで烏の群が踊る (濠と ぐみの木かそんなにひかつてゆするもの 七つの銀のすすきの穂 (お城の下の桐畑でも ゆれてゐるゆれてゐる 桐が) 赤い すゞめ すゞめ ゆつくり杉に飛んで稲にはひる そこはどての陰で気流もないので そんなにゆつくり飛べるのだ (なんだか風と悲しさのために胸がつまる) ひとの名前をなんべんも 風のなかで繰り返してさしつかへないか (もうみんな鍬や縄をもち 崖をおりてきていゝころだ) いまは鳥のないしづかなそらに またからすが横からはひる 屋根は矩形で傾斜白くひかり こどもがふたりかけて行く 羽織をかざしてかける日本の子供ら こんどは茶いろの雀どもの抛物線 金属製の桑のこつちを もひとりこどもがゆつくり行く 蘆の穂は赤い赤い (ロシヤだよ チエホフだよ) はこやなぎ しつかりゆれろゆれろ (ロシヤだよ ロシヤだよ) 烏がもいちど飛びあがる 稀硫酸の中の亜鉛屑は烏のむれ お城の上のそらはこんどは支那のそら 烏三疋杉をすべり 四疋になつて旋転する (一九二二、一〇、一〇)
[#改ページ]樺の向ふで日はけむる つめたい露でレールはすべる 靴革の料理のためにレールはすべる 朝のレールを栗鼠は横切る 横切るとしてたちどまる 尾は der Herbst 日はまつしろにけむりだし 栗鼠は走りだす 水そばの たれか三角やまの草を刈つた ずゐぶんうまくきれいに刈つた 緑いろのサラアブレツド 日は白金をくすぼらし 一れつ黒い杉の槍 その 古い壁画のきららから 再生してきて浮きだしたのだ 色鉛筆がほしいつて ステツドラアのみじかいペンか ステツドラアのならいいんだが 来月にしてもらひたいな まああの山と上の雲との模様を見ろ よく熟してゐてうまいから (一九二二、一〇、一五)
[#改丁][#ページの左右中央] [#改ページ] けふのうちに とほくへいつてしまふわたくしのいもうとよ みぞれがふつておもてはへんにあかるいのだ (*あめゆじゆとてちてけんじや) うすあかくいつそう みぞれはびちよびちよふつてくる (あめゆじゆとてちてけんじや) 青い これらふたつのかけた おまへがたべるあめゆきをとらうとして わたくしはまがつたてつぱうだまのやうに このくらいみぞれのなかに飛びだした (あめゆじゆとてちてけんじや) みぞれはびちよびちよ沈んでくる ああとし子 死ぬといふいまごろになつて わたくしをいつしやうあかるくするために こんなさつぱりした雪のひとわんを おまへはわたくしにたのんだのだ ありがたうわたくしのけなげないもうとよ わたくしもまつすぐにすすんでいくから (あめゆじゆとてちてけんじや) はげしいはげしい熱やあへぎのあひだから おまへはわたくしにたのんだのだ 銀河や太陽 気圏などとよばれたせかいの そらからおちた雪のさいごのひとわんを…… ……ふたきれのみかげせきざいに みぞれはさびしくたまつてゐる わたくしはそのうへにあぶなくたち 雪と水とのまつしろな すきとほるつめたい雫にみちた このつややかな松のえだから わたくしのやさしいいもうとの さいごのたべものをもらつていかう わたしたちがいつしよにそだつてきたあひだ みなれたちやわんのこの藍のもやうにも もうけふおまへはわかれてしまふ (*Ora Orade Shitori egumo) ほんたうにけふおまへはわかれてしまふ あああのとざされた病室の くらいびやうぶやかやのなかに やさしくあをじろく燃えてゐる わたくしのけなげないもうとよ この雪はどこをえらばうにも あんまりどこもまつしろなのだ あんなおそろしいみだれたそらから このうつくしい雪がきたのだ (*うまれでくるたて こんどはこたにわりやのごとばかりで くるしまなあよにうまれてくる) おまへがたべるこのふたわんのゆきに わたくしはいまこころからいのる どうかこれが天上のアイスクリームになつて おまへとみんなとに聖い資糧をもたらすやうに わたくしのすべてのさいはひをかけてねがふ ((一九二二、一一、二七))
[#改ページ]さつきのみぞれをとつてきた あのきれいな松のえだだよ おお おまへはまるでとびつくやうに そのみどりの葉にあつい頬をあてる そんな植物性の青い針のなかに はげしく頬を刺させることは むさぼるやうにさへすることは どんなにわたくしたちをおどろかすことか そんなにまでもおまへは林へ行きたかつたのだ おまへがあんなにねつに燃され あせやいたみでもだえてゐるとき わたくしは日のてるとこでたのしくはたらいたり ほかのひとのことをかんがへながら森をあるいてゐた ((*ああいい さつぱりした まるで林のながさ来たよだ)) 鳥のやうに おまへは林をしたつてゐた どんなにわたくしがうらやましかつたらう ああけふのうちにとほくへさらうとするいもうとよ ほんたうにおまへはひとりでいかうとするか わたくしにいつしよに行けとたのんでくれ 泣いてわたくしにさう言つてくれ おまへの頬の けれども なんといふけふのうつくしさよ わたくしは緑のかやのうへにも この新鮮な松のえだをおかう いまに雫もおちるだらうし そら さはやかな ((一九二二、一一、二七))
[#改ページ]こんなにみんなにみまもられながら おまへはまだここでくるしまなければならないか ああ巨きな信のちからからことさらにはなれ また純粋やちひさな徳性のかずをうしなひ わたくしが青ぐらい修羅をあるいてゐるとき おまへはじぶんにさだめられたみちを ひとりさびしく往かうとするか 信仰を一つにするたつたひとりのみちづれのわたくしが あかるくつめたい 毒草や蛍光菌のくらい野原をただよふとき おまへはひとりどこへ行かうとするのだ (*おら おかないふうしてらべ) 何といふあきらめたやうな悲痛なわらひやうをしながら またわたくしのどんなちひさな表情も けつして見遁さないやうにしながら おまへはけなげに母に (うんにや ずゐぶん立派だぢやい けふはほんとに立派だぢやい) ほんたうにさうだ 髪だつていつそうくろいし まるでこどもの苹果の頬だ どうかきれいな頬をして あたらしく天にうまれてくれ ((*それでもからだくさえがべ?)) ((うんにや いつかう)) ほんたうにそんなことはない かへつてここはなつののはらの ちひさな白い花の匂でいつぱいだから ただわたくしはそれをいま言へないのだ (わたくしは修羅をあるいてゐるのだから) わたくしのかなしさうな眼をしてゐるのは わたくしのふたつのこころをみつめてゐるためだ ああそんなに かなしく眼をそらしてはいけない ((一九二二、一一、二七))
註
[#改ページ]*あめゆきとつてきてください *あたしはあたしでひとりいきます *またひとにうまれてくるときは こんなにじぶんのことばかりで くるしまないやうにうまれてきます *ああいい さつぱりした まるではやしのなかにきたやうだ *あたしこはいふうをしてるでせう *それでもわるいにほひでせう (かしはのなかには鳥の巣がない あんまりがさがさ鳴るためだ) ここは艸があんまり とほいそらから空気をすひ おもひきり倒れるにてきしない そこに水いろによこたはり 一列生徒らがやすんでゐる (かげはよると亜鉛とから合成される) それをうしろに わたくしはこの草にからだを投げる 月はいましだいに銀のアトムをうしなひ かしははせなかをくろくかがめる ばうずの 騎兵聯隊の灯も澱んでゐる ((ああおらはあど死んでもい)) ((おらも死んでもい)) (それはしよんぼりたつてゐる宮沢か さうでなければ小田島国友 向ふの柏木立のうしろの闇が きらきらつといま顫へたのは Egmont Overture にちがひない たれがそんなことを云つたかは わたくしはむしろかんがへないでいい) ((伝さん しやつつ何枚 三枚着たの)) せいの高くひとのいい佐藤伝四郎は 月光の反照のにぶいたそがれのなかに しやつのぼたんをはめながら きつと口をまげてわらつてゐる 降つてくるものはよるの微塵や風のかけら よこに鉛の針になつてながれるものは月光のにぶ ((ほお おら……)) 言ひかけてなぜ堀田はやめるのか おしまひの声もさびしく反響してゐるし さういふことはいへばいい (言はないなら手帳へ書くのだ) とし子とし子 野原へ来れば また風の中に立てば きつとおまへをおもひだす おまへはその巨きな木星のうへに居るのか 鋼青壮麗のそらのむかふ (ああけれどもそのどこかも知れない空間で 光の紐やオーケストラがほんたうにあるのか ………… ただひときれのおまへからの通信が いつか汽車のなかでわたくしにとどいただけだ) とし子 わたくしは高く呼んでみようか ((手 ((手凍えだ? 俊夫ゆぐ凍えるな こなひだもボダンおれさ掛げらせだぢやい)) 俊夫といふのはどつちだらう 川村だらうか あの青ざめた喜劇の天才「植物医師」の一役者 わたくしははね起きなければならない ((おゝ 俊夫てどつちの俊夫)) ((川村)) やつぱりさうだ 月光は柏のむれをうきたたせ かしははいちめんさらさらと鳴る (一九二三、六、三)
[#改ページ]((みんなサラーブレツドだ あゝいふ馬 誰行つても押へるにいがべが)) ((よつぽどなれたひとでないと)) 古風なくらかけやまのした おきなぐさの冠毛がそよぎ 鮮かな青い樺の木のしたに 何匹かあつまる茶いろの馬 じつにすてきに光つてゐる (日本絵巻のそらの群青や 天末の あんな大きな心相の 光の 二疋の大きな白い鳥が 鋭くかなしく啼きかはしながら しめつた朝の日光を飛んでゐる それはわたくしのいもうとだ 死んだわたくしのいもうとだ 兄が来たのであんなにかなしく啼いてゐる (それは一応はまちがひだけれども まつたくまちがひとは言はれない) あんなにかなしく啼きながら 朝のひかりをとんでゐる (あさの日光ではなくて 熟してつかれたひるすぎらしい) けれどもそれも夜どほしあるいてきたための (ちやんと今朝あのひしげて融けた 青い夢の北上山地からのぼつたのをわたくしは見た) どうしてそれらの鳥は二羽 そんなにかなしくきこえるか それはじぶんにすくふちからをうしなつたとき わたくしのいもうとをもうしなつた そのかなしみによるのだが (ゆふべは柏ばやしの月あかりのなか けさはすずらんの花のむらがりのなかで なんべんわたくしはその名を呼び またたれともわからない声が 人のない野原のはてからこたへてきて わたくしを嘲笑したことか) そのかなしみによるのだが またほんたうにあの声もかなしいのだ いま鳥は二羽 かゞやいて白くひるがへり むかふの湿地 青い蘆のなかに降りる 降りようとしてまたのぼる (日本武尊の新らしい御陵の前に おきさきたちがうちふして嘆き そこからたまたま千鳥が飛べば それを尊のみたまとおもひ 蘆に足をも傷つけながら 海べをしたつて行かれたのだ) 清原がわらつて立つてゐる (日に灼けて光つてゐるほんたうの農村のこども その菩薩ふうのあたまの 水が光る きれいな銀の水だ ((さああすこに水があるよ 口をすゝいでさつぱりして往かう こんなきれいな野はらだから)) (一九二三、六、四)
[#改丁][#ページの左右中央] [#改ページ] こんなやみよののはらのなかをゆくときは 客車のまどはみんな水族館の窓になる (乾いたでんしんばしらの列が せはしく遷つてゐるらしい きしやは銀河系の 巨きな水素のりんごのなかをかけてゐる) りんごのなかをはしつてゐる けれどもここはいつたいどこの停車 枕木を焼いてこさへた柵が立ち (八月の よるのしじまの 支手のあるいちれつの柱は なつかしい陰影だけでできてゐる 黄いろなラムプがふたつ せいたかくあをじろい駅長の 真鍮棒もみえなければ じつは駅長のかげもないのだ (その大学の昆虫学の助手は こんな車室いつぱいの液体のなかで 油のない赤 かばんにもたれて睡つてゐる) わたくしの汽車は北へ走つてゐるはずなのに ここではみなみへかけてゐる 焼杭の柵はあちこち倒れ はるかに黄いろの地平線 それはビーアの あやしいよるの 陽炎と さびしい心意の明滅にまぎれ 水いろ川の水いろ駅 (おそろしいあの水いろの空虚なのだ) 汽車の逆行は こんなさびしい幻想から わたくしははやく浮びあがらなければならない そこらは青い孔雀のはねでいつぱい 真鍮の睡さうな脂肪酸にみち 車室の五つの電燈は いよいよつめたく液化され (考へださなければならないことを わたくしはいたみやつかれから なるべくおもひださうとしない) 今日のひるすぎなら けはしく光る雲のしたで まつたくおれたちはあの重い赤いポムプを ばかのやうに引つぱつたりついたりした おれはその黄いろな服を着た隊長だ だから睡いのはしかたない ( どうかここから急いで去 ((尋常一年生 ドイツの尋常一年生)) いきなりそんな悪い叫びを 投げつけるのはいつたいたれだ けれども尋常一年生だ 夜中を過ぎたいまごろに こんなにぱつちり眼をあくのは ドイツの尋常一年生だ) あいつはこんなさびしい停車場を たつたひとりで通つていつたらうか どこへ行くともわからないその方向を どの種類の世界へはひるともしれないそのみちを たつたひとりでさびしくあるいて行つたらうか (草や沼やです 一本の木もです) ((ギルちやんまつさをになつてすわつてゐたよ)) ((こおんなにして眼は大きくあいてたけど ぼくたちのことはまるでみえないやうだつたよ)) ((ナーガラがね 眼をじつとこんなに赤くして だんだん ((し 環をお切り そら 手を出して)) ((ギルちやん青くてすきとほるやうだつたよ)) ((鳥がね たくさんたねまきのときのやうに ばあつと空を通つたの でもギルちやんだまつてゐたよ)) ((お日さまあんまり変に飴いろだつたわねえ)) ((ギルちやんちつともぼくたちのことみないんだもの ぼくほんたうにつらかつた)) ((さつきおもだかのとこであんまりはしやいでたねえ)) ((どうしてギルちやんぼくたちのことみなかつたらう 忘れたらうかあんなにいつしよにあそんだのに)) かんがへださなければならないことは どうしてもかんがへださなければならない とし子はみんなが死ぬとなづける そのやりかたを通つて行き それからさきどこへ行つたかわからない それはおれたちの空間の方向ではかられない 感ぜられない方向を感じようとするときは たれだつてみんなぐるぐるする ((耳ごうど鳴つてさつぱり聞けなぐなつたんちやい)) さう甘えるやうに言つてから たしかにあいつはじぶんのまはりの 眼にははつきりみえてゐる なつかしいひとたちの声をきかなかつた にはかに呼吸がとまり脈がうたなくなり それからわたくしがはしつて行つたとき あのきれいな眼が なにかを索めるやうに空しくうごいてゐた それはもうわたくしたちの空間を二度と見なかつた それからあとであいつはなにを感じたらう それはまだおれたちの世界の幻視をみ おれたちのせかいの幻聴をきいたらう わたくしがその耳もとで 遠いところから声をとつてきて そらや愛やりんごや風 すべての勢力のたのしい根源 万象同帰のそのいみじい生物の名を ちからいつぱいちからいつぱい叫んだとき あいつは二へんうなづくやうに息をした 白い尖つたあごや頬がゆすれて ちひさいときよくおどけたときにしたやうな あんな偶然な顔つきにみえた けれどもたしかにうなづいた ((ヘツケル博士! わたくしがそのありがたい証明の 任にあたつてもよろしうございます)) 凍らすやうなあんな卑怯な叫び声は…… (宗谷海峡を越える晩は わたくしは夜どほし甲板に立ち あたまは具へなく陰湿の霧をかぶり からだはけがれたねがひにみたし そしてわたくしはほんたうに挑戦しよう) たしかにあのときはうなづいたのだ そしてあんなにつぎのあさまで 胸がほとつてゐたくらゐだから わたくしたちが死んだといつて泣いたあと とし子はまだまだこの世かいのからだを感じ ねつやいたみをはなれたほのかなねむりのなかで ここでみるやうなゆめをみてゐたかもしれない そしてわたくしはそれらのしづかな夢幻が つぎのせかいへつゞくため 明るいいゝ匂のするものだつたことを どんなにねがふかわからない ほんたうにその夢の中のひとくさりは かん護とかなしみとにつかれて睡つてゐた おしげ子たちのあけがたのなかに ぼんやりとしてはひつてきた ((黄いろな花こ おらもとるべがな)) たしかにとし子はあのあけがたは まだこの世かいのゆめのなかにゐて 落葉の風につみかさねられた 野はらをひとりあるきながら ほかのひとのことのやうにつぶやいてゐたのだ そしてそのままさびしい林のなかの いつぴきの鳥になつただらうか I'estudiantina を風にききながら 水のながれる暗いはやしのなかを かなしくうたつて飛んで行つたらうか やがてはそこに小さなプロペラのやうに 音をたてて飛んできたあたらしいともだちと 無心のとりのうたをうたひながら たよりなくさまよつて行つたらうか わたくしはどうしてもさう思はない なぜ通信が許されないのか 許されてゐる そして私のうけとつた通信は 母が夏のかん病のよるにゆめみたとおなじだ どうしてわたくしはさうなのをさうと思はないのだらう それらひとのせかいのゆめはうすれ あかつきの薔薇いろをそらにかんじ あたらしくさはやかな感官をかんじ 日光のなかのけむりのやうな かがやいてほのかにわらひながら はなやかな雲やつめたいにほひのあひだを 交錯するひかりの棒を過ぎり われらが上方とよぶその不可思議な方角へ それがそのやうであることにおどろきながら 大循環の風よりもさはやかにのぼつて行つた わたくしはその跡をさへたづねることができる そこに碧い寂かな湖水の面をのぞみ あまりにもそのたひらかさとかがやきと 未知な全反射の方法と さめざめとひかりゆすれる樹の列を ただしくうつすことをあやしみ やがてはそれがおのづから研かれた 天の瑠璃の地面と知つてこゝろわななき 紐になつてながれるそらの楽音 また瓔珞やあやしいうすものをつけ 移らずしかもしづかにゆききする 巨きなすあしの生物たち 遠いほのかな記憶のなかの花のかをり それらのなかにしづかに立つたらうか それともおれたちの声を聴かないのち 暗紅色の深くもわるいがらん洞と 意識ある蛋白質の砕けるときにあげる声 亜硫酸や これらをそこに見るならば あいつはその中にまつ青になつて立ち 立つてゐるともよろめいてゐるともわからず 頬に手をあててゆめそのもののやうに立ち (わたくしがいまごろこんなものを感ずることが いつたいほんたうのことだらうか わたくしといふものがこんなものをみることが いつたいありうることだらうか そしてほんたうにみてゐるのだ)と 斯ういつてひとりなげくかもしれない…… わたくしのこんなさびしい考は みんなよるのためにできるのだ 夜があけて海岸へかかるなら そして波がきらきら光るなら なにもかもみんないいかもしれない けれどもとし子の死んだことならば いまわたくしがそれを夢でないと考へて あたらしくぎくつとしなければならないほどの あんまりひどいげんじつなのだ 感ずることのあまり新鮮にすぎるとき それをがいねん化することは きちがひにならないための 生物体の一つの自衛作用だけれども いつでもまもつてばかりゐてはいけない ほんたうにあいつはここの感官をうしなつたのち あらたにどんなからだを得 どんな感官をかんじただらう なんべんこれをかんがへたことか むかしからの多数の実験から 倶舎がさつきのやうに云ふのだ 二度とこれをくり返してはいけない おもては 半月の噴いた瓦斯でいつぱいだ 月のあかりはしみわたり それはあやしい いよいよあやしい苹果の匂を発散し なめらかにつめたい窓硝子さへ越えてくる 青森だからといふのではなく 大てい月がこんなやうな暁ちかく 巻積雲にはひるとき…… ((おいおい あの顔いろは少し青かつたよ)) だまつてゐろ おれのいもうとの死顔が まつ青だらうが黒からうが きさまにどう斯う云はれるか あいつはどこへ堕ちようと もう無上道に属してゐる 力にみちてそこを進むものは どの空間にでも勇んでとびこんで行くのだ ぢきもう東の鋼もひかる ほんたうにけふの……きのふのひるまなら おれたちはあの重い赤いポムプを…… ((もひとつきかせてあげよう ね じつさいね あのときの眼は白かつたよ すぐ瞑りかねてゐたよ)) まだいつてゐるのか もうぢきよるはあけるのに すべてあるがごとくにあり かゞやくごとくにかがやくもの おまへの武器やあらゆるものは おまへにくらくおそろしく まことはたのしくあかるいのだ ((みんなむかしからのきやうだいなのだから けつしてひとりをいのつてはいけない)) ああ わたくしはけつしてさうしませんでした あいつがなくなつてからあとのよるひる わたくしはただの一どたりと あいつだけがいいとこに行けばいいと さういのりはしなかつたとおもひます (一九二三、八、一)
[#改ページ]海面は朝の炭酸のためにすつかり銹びた むかふの波のちゞれたあたりはずゐぶんひどい チモシイの穂がこんなにみじかくなつて かはるがはるかぜにふかれてゐる (それは青いいろのピアノの鍵で かはるがはる風に押されてゐる) あるいはみじかい変種だらう しづくのなかに朝顔が咲いてゐる モーニンググローリのそのグローリ いまさつきの曠原風の荷馬車がくる 年老つた白い重挽馬は首を垂れ またこの男のひとのよさは わたくしがさつきあのがらんとした町かどで 浜のいちばん賑やかなとこはどこですかときいた時 そつちだらう 向ふには行つたことがないからと さう云つたことでもよくわかる いまわたくしを親切なよこ目でみて (その小さなレンズには たしか樺太の白い雲もうつつてゐる) 朝顔よりはむしろ おほきなはまばらの花だ まつ赤な朝のはまなすの花です ああこれらのするどい花のにほひは もうどうしても 妖精のしわざだ 無数の藍いろの蝶をもたらし またちひさな黄金の槍の穂 軟玉の花瓶や青い簾 それにあんまり雲がひかるので たのしく激しいめまぐるしさ 馬のひづめの痕が二つづつ ぬれて寂まつた褐砂の上についてゐる もちろん馬だけ行つたのではない 広い荷馬車のわだちは こんなに淡いひとつづり 波の来たあとの白い細い線に 小さな蚊が三疋さまよひ またほのぼのと吹きとばされ 貝殻のいぢらしくも白いかけら 萱草の青い花軸が半分砂に埋もれ 波はよせるし砂を巻くし 白い片岩類の小砂利に倒れ 波できれいにみがかれた ひときれの貝殻を口に含み わたくしはしばらくねむらうとおもふ なぜならさつきあの熟した黒い実のついた まつ青なこけももの上等の おほきな赤いはまばらの花と 不思議な サガレンの朝の妖精にやつた 透明なわたくしのエネルギーを いまこれらの濤のおとや しめつたにほひのいい風や 雲のひかりから恢復しなければならないから それにだいいちいまわたくしの心象は つかれのためにすつかり青ざめて 眩ゆい緑金にさへなつてゐるのだ 日射しや幾重の暗いそらからは あやしい鑵鼓の蕩音さへする わびしい草穂やひかりのもや 雲の累帯構造のつぎ目から 一きれのぞく天の青 強くもわたくしの胸は刺されてゐる それらの二つの青いいろは どちらもとし子のもつてゐた特性だ わたくしが樺太のひとのない海岸を ひとり歩いたり疲れて睡つたりしてゐるとき とし子はあの青いところのはてにゐて なにをしてゐるのかわからない とゞ松やえぞ松の荒さんだ幹や枝が ごちやごちや漂ひ置かれたその向ふで 波はなんべんも巻いてゐる その巻くために砂が湧き 潮水はさびしく濁つてゐる (十一時十五分 その蒼じろく光る 鳥は雲のこつちを上下する ここから今朝舟が滑つて行つたのだ 砂に刻まれたその船底の痕と 巨きな横の台木のくぼみ それはひとつの曲つた十字架だ 幾本かの小さな木片で HELL と書きそれを LOVE となほし ひとつの十字架をたてることは よくたれでもがやる技術なので とし子がそれをならべたとき わたくしはつめたくわらつた (貝がひときれ砂にうづもれ 白いそのふちばかり出てゐる) やうやく乾いたばかりのこまかな砂が この十字架の刻みのなかをながれ いまはもうどんどん流れてゐる 海がこんなに青いのに わたくしがまだとし子のことを考へてゐると なぜおまへはそんなにひとりばかりの妹を 悼んでゐるかと遠いひとびとの表情が言ひ またわたくしのなかでいふ (Casual observer ! Superficial traveler !) 空があんまり光ればかへつてがらんと暗くみえ いまするどい羽をした三羽の鳥が飛んでくる あんなにかなしく啼きだした なにかしらせをもつてきたのか わたくしの片つ方のあたまは痛く 遠くなつた栄浜の屋根はひらめき 鳥はただ一羽硝子笛を吹いて 玉髄の雲に漂つていく 町やはとばのきららかさ その背のなだらかな丘陵の鴾いろは いちめんのやなぎらんの花だ 爽やかな 黒緑とどまつの列 (ナモサダルマプフンダリカサスートラ) 五匹のちひさないそしぎが 海の巻いてくるときは よちよちとはせて遁げ (ナモサダルマプフンダリカサスートラ) 浪がたひらにひくときは 砂の鏡のうへを よちよちとはせてでる (一九二三、八、四)
[#改ページ]やなぎらんやあかつめくさの群落 松脂岩薄片のけむりがただよひ 鈴谷山脈は光霧か雲かわからない (灼かれた馴鹿の黒い頭骨は 線路のよこの赤砂利に ごく敬虔に置かれてゐる) そつと見てごらんなさい やなぎが青くしげつてふるへてゐます きつとポラリスやなぎですよ おお満艦飾のこのえぞにふの花 月光いろのかんざしは すなほなコロボツクルのです (ナモサダルマプフンダリカサスートラ) Van't Hoff の雲の白髪の崇高さ 崖にならぶものは 青びかり野はらをよぎる細流 それはツンドラを截り (光るのは電しんばしらの碍子) 夕陽にすかし出されると その緑金の草の葉に ごく精巧ないちいちの葉脈 (樺の微動のうつくしさ) 黒い木柵も設けられて やなぎらんの光の点綴 (こゝいらの樺の木は 焼けた野原から生えたので みんな大乗風の考をもつてゐる) にせものの大乗居士どもをみんな灼け 太陽もすこし青ざめて 山脈の縮れた白い雲の上にかかり 列車の窓の稜のひととこが プリズムになつて日光を反射し 草地に投げられたスペクトル (雲はさつきからゆつくり流れてゐる) 日さへまもなくかくされる かくされる前には感応により かくされた後には威神力により まばゆい (ナモサダルマプフンダリカサスートラ) たしかに日はいま羊毛の雲にはひらうとして サガレンの八月のすきとほつた空気を やうやく葡萄の またフレツプスのやうに甘くはつかうさせるのだ そのためにえぞにふの花が一そう明るく見え 松毛虫に食はれて枯れたその大きな山に 桃いろな日光もそそぎ すべて天上技師 Nature 氏の ごく斬新な設計だ 山の 緑青のゴーシユ四辺形 そのいみじい からすが飛ぶと見えるのは 一本のごくせいの高いとどまつの 風に削り残された黒い梢だ (ナモサダルマプフンダリカサスートラ) 結晶片岩山地では 燃えあがる雲の銅粉 (向ふが燃えればもえるほど[#「もえるほど」は底本では「もえるほど)」] ここらの樺ややなぎは暗くなる) こんなすてきな瑪瑙の その下ではぼろぼろの火雲が燃えて 一きれはもう錬金の過程を了へ いまにも結婚しさうにみえる (濁つてしづまる天の青らむ一かけら) いちめんいちめん海蒼のチモシイ めぐるものは神経質の またえぞにふと こんなに青い白樺の間に 鉋をかけた立派なうちをたてたので これはおれのうちだぞと その顔の赤い愉快な百姓が 井上と少しびつこに大きく壁に書いたのだ (一九二三、八、四)
[#改ページ]蜂が一ぴき飛んで行く 琥珀細工の春の器械 蒼い眼をしたすがるです (私のとこへあらはれたその蜂は ちやんと抛物線の図式にしたがひ さびしい未知へとんでいつた) チモシイの穂が青くたのしくゆれてゐる それはたのしくゆれてゐるといつたところで 荘厳ミサや うれひや悲しみに対立するものではない だから新らしい蜂がまた一疋飛んできて ぼくのまはりをとびめぐり また茨や灌木にひつかかれた わたしのすあしを刺すのです こんなうるんで秋の雲のとぶ日 鈴谷平野の荒さんだ山際の焼け跡に わたくしはこんなにたのしくすわつてゐる ほんたうにそれらの焼けたとゞまつが まつすぐに天に立つて加奈太式に風にゆれ また夢よりもたかくのびた白樺が 青ぞらにわづかの新葉をつけ 三稜玻璃にもまれ (うしろの方はまつ青ですよ クリスマスツリーに使ひたいやうな あをいまつ青いとどまつが いつぱいに生えてゐるのです) いちめんのやなぎらんの群落が 光ともやの紫いろの花をつけ 遠くから近くからけむつてゐる (さはしぎも啼いてゐる たしかさはしぎの発動機だ) こんやはもう標本をいつぱいもつて わたくしは宗谷海峡をわたる だから風の音が汽車のやうだ 流れるものは二条の茶 蛇ではなくて一ぴきの栗鼠 いぶかしさうにこつちをみる (こんどは風が みんなのがやがやしたはなし声にきこえ うしろの遠い山の下からは 好摩の冬の青ぞらから落ちてきたやうな すきとほつた大きなせきばらひがする これはサガレンの古くからの誰かだ) (一九二三、八、七)
[#改ページ]どこから来てこんなに照らすのか (車室は軋みわたくしはつかれて睡つてゐる) とし子は大きく眼をあいて 烈しい薔薇いろの火に燃されながら (あの七月の高い熱……) 鳥が棲み空気の水のやうな林のことを考へてゐた (かんがへてゐたのか いまかんがへてゐるのか) 車室の軋りは二疋の ((ことしは勤めにそとへ出てゐないひとは みんなかはるがはる林へ行かう)) どこかの生意気なアラビヤ酋長が言ふ 七月末のそのころに 思ひ余つたやうにとし子が言つた ((おらあど死んでもいゝはんて あの林の中さ行ぐだい うごいで熱は高ぐなつても あの林の中でだらほんとに死んでもいいはんて)) 鳥のやうに栗鼠のやうに そんなにさはやかな林を恋ひ (栗鼠の軋りは水車の夜明け 大きなくるみの木のしただ) 一千九百二十三年の とし子はやさしく眼をみひらいて 透明薔薇の身熱から 青い林をかんがへてゐる フアゴツトの声が前方にし Funeral march があやしくいままたはじまり出す (車室の軋りはかなしみの二疋の栗鼠) ((栗鼠お魚たべあんすのすか)) (二等室のガラスは霜のもやう) もう明けがたに遠くない 崖の木や草も明らかに見え 車室の軋りもいつかかすれ 一ぴきのちひさなちひさな白い蛾が 天井のあかしのあたりを這つてゐる (車室の軋りは天の楽音) 噴火湾のこの黎明の水明り 室蘭通ひの汽船には 二つの赤い灯がともり 東の天末は濁つた孔雀石の縞 黒く立つものは樺の木と楊の木 駒ヶ岳駒ヶ岳 暗い金属の雲をかぶつて立つてゐる そのまつくらな雲のなかに とし子がかくされてゐるかもしれない ああ何べん理智が教へても 私のさびしさはなほらない わたくしの感じないちがつた空間に いままでここにあつた現象がうつる それはあんまりさびしいことだ (そのさびしいものを死といふのだ) たとへそのちがつたきらびやかな空間で とし子がしづかにわらはうと わたくしのかなしみにいぢけた感情は どうしてもどこかにかくされたとし子をおもふ (一九二三、八、一一)
[#改丁][#ページの左右中央] [#改ページ] 油紙を着てぬれた馬に乗り つめたい風景のなか 暗い森のかげや ゆるやかな ゆつくりあるくといふこともいゝし 黒い多面角の ごく新鮮な企画である (ちらけろちらけろ 四十雀) 粗剛なオリザサチバといふ植物の人工群落が タアナアさへもほしがりさうな 上等のさらどの色になつてゐることは (ちらけろちらけろ そのときの高等遊民は いましつかりした執政官だ) ことことと寂しさを噴く暗い山に 防火線のひらめく灰いろなども 慈雲尊者にしたがへば 不貪慾戒のすがたです (一九二三、八、二八)
[#改ページ]雲は羊毛とちぢれ 黒緑 またなかぞらには氷片の雲がうかび すすきはきらつと光つて過ぎる ((北ぞらのちぢれ羊から おれの崇敬は照り返され 天の海と窓の日おほひ おれの崇敬は照り返され)) 沼はきれいに鉋をかけられ 朧ろな秋の水ゾルと つめたくぬるぬるした ゆふべ一晩の雨でできた 陶庵だか東庵だかの蒔絵の 精製された水銀の川です アマルガムにさへならなかつたら 銀の水車でもまはしていい 無細工な銀の水車でもまはしていい (赤紙をはられた火薬車だ あたまの奥ではもうまつ白に爆発してゐる) 無細工の銀の水車でもまはすがいい カフカズ風に帽子を折つてかぶるもの 感官のさびしい盈虚のなかで 貨物車輪の裏の秋の明るさ (ひのきのひらめく六月に おまへが刻んだその線は やがてどんな重荷になつて おまへに男らしい償ひを強ひるかわからない) 手宮文字です 手宮文字です こんなにそらがくもつて来て 山も大へん尖つて青くくらくなり 豆畑だつてほんたうにかなしいのに わづかにその山稜と雲との間には あやしい光の微塵にみちた 幻惑の天がのぞき またそのなかにはかがやきまばゆい積雲の一列が こころも遠くならんでゐる これら葬送行進曲の層雲の底 鳥もわたらない わたくしはたつたひとり つぎからつぎと冷たいあやしい幻想を抱きながら 一梃のかなづちを持つて 南の方へ石灰岩のいい層を さがしに行かなければなりません (一九二三、八、三一)
[#改ページ]がさがさした稲もやさしい 西ならあんな暗い立派な霧でいつぱい 草穂はいちめん風で波立つてゐるのに 可哀さうなおまへの弱いあたまは くらくらするまで青く乱れ いまに太田武か誰かのやうに 眼のふちもぐちやぐちやになつてしまふ ほんたうにそんな偏つて尖つた心の動きかたのくせ なぜこんなにすきとほつてきれいな気層のなかから 燃えて暗いなやましいものをつかまへるか 信仰でしか得られないものを なぜ人間の中でしつかり捕へようとするか 風はどうどう空で鳴つてるし 東京の避難者たちは半分脳膜炎になつて いまでもまいにち遁げて来るのに どうしておまへはそんな医される筈のないかなしみを わざとあかるいそらからとるか いまはもうさうしてゐるときでない けれども悪いとかいゝとか云ふのではない あんまりおまへがひどからうとおもふので みかねてわたしはいつてゐるのだ さあなみだをふいてきちんとたて もうそんな宗教風の恋をしてはいけない そこはちやうど両方の空間が二重になつてゐるとこで おれたちのやうな初心のものに 居られる場処では決してない (一九二三、九、一六)
[#改ページ]爽かなくだもののにほひに充ち つめたくされた銀製の 雲がどんどんかけてゐる 一疋の馬がゆつくりやつてくる ひとりの農夫が乗つてゐる もちろん農夫はからだ半分ぐらゐ またじぶんでも溶けてもいいとおもひながら あたまの大きな曖昧な馬といつしよにゆつくりくる 首を垂れておとなしくがさがさした南部馬 黒く巨きな松倉山のこつちに 一点のダアリア複合体 その電燈の じつに九月の宝石である その電燈の献策者に わたくしは青い どんなにこれらのぬれたみちや クレオソートを塗つたばかりのらんかんや 電線も二本にせものの 風景が深く透明にされたかわからない 下では水がごうごう流れて行き 薄明穹の爽かな銀と苹果とを 黒白鳥のむな毛の塊が奔り ((ああ お月さまが出てゐます)) ほんたうに鋭い秋の粉や 橋のらんかんには雨粒がまだいつぱいついてゐる なんといふこのなつかしさの湧きあがり 水はおとなしい膠朧体だし わたくしはこんな 松倉山や 放たれた剽悍な刺客に 暗殺されてもいいのです (たしかにわたくしがその木をきつたのだから) (杉のいただきは黒くそらの椀を刺し) 風が口笛をはんぶんちぎつて持つてくれば (気の毒な二重感覚の機関) わたくしは古い印度の青草をみる 崖にぶつつかるそのへんの水は 葱のやうに横に そんなに風はうまく吹き 半月の表面はきれいに吹きはらはれた だからわたくしの洋傘は しばらくぱたぱた言つてから ぬれた橋板に倒れたのだ 松倉山松倉山尖つてまつ暗な悪魔蒼鉛の空に立ち 電燈はよほど熟してゐる 風がもうこれつきり吹けば まさしく吹いて来る ひときれそらにうかぶ暁のモテイーフ 電線と恐ろしい そこから見当のつかない大きな青い星がうかぶ (何べんの恋の償ひだ) そんな恐ろしいがまいろの雲と わたくしの上着はひるがへり (オルゴールをかけろかけろ) 月はいきなり二つになり 盲ひた黒い暈をつくつて光面を過ぎる雲の一群 (しづまれしづまれ五間森 木をきられてもしづまるのだ) (一九二三、九、一六)
[#改ページ]風が偏倚して過ぎたあとでは クレオソートを塗つたばかりの電柱や 逞しくも起伏する (虚空は古めかしい 研ぎ澄まされた天河石天盤の半月 すべてこんなに錯綜した雲やそらの景観が すきとほつて巨大な過去になる 五日の月はさらに小さく副生し 意識のやうに移つて行くちぎれた蛋白彩の雲 月の尖端をかすめて過ぎれば そのまん中の厚いところは黒いのです (風と きららかにきらびやかにみだれて飛ぶ断雲と 星雲のやうにうごかない天盤附属の氷片の雲 (それはつめたい虹をあげ) いま硅酸の雲の大部が行き過ぎようとするために みちはなんべんもくらくなり (月あかりがこんなにみちにふると まへにはよく硫黄のにほひがのぼつたのだが いまはその小さな硫黄の粒も 風や酸素に溶かされてしまつた) じつに空は底のしれない洗ひがけの虚空で 月は水銀を塗られたでこぼこの噴火口からできてゐる (山もはやしもけふはひじやうに峻儼だ) どんどん雲は月のおもてを研いで飛んでゆく ひるまのはげしくすさまじい雨が 微塵からなにからすつかりとつてしまつたのだ 月の彎曲の内側から 白いあやしい気体が噴かれ そのために却つて一きれの雲がとかされて (杉の列はみんな黒真珠の保護色) そらそら B氏のやつたあの虹の交錯や顫ひと 苹果の未熟なハロウとが あやしく天を覆ひだす 杉の列には山烏がいつぱいに ペガススのあたりに立つてゐた いま雲は一せいに散兵をしき 極めて堅実にすすんで行く おゝ私のうしろの松倉山には 用意された一万の硅化流紋凝灰岩の弾塊があり 川尻断層のときから息を殺してしまつてゐて 私が腕時計を光らし過ぎれば落ちてくる 空気の透明度は水よりも強く 松倉山から生えた木は 敬虔に天に祈つてゐる 辛うじて赤いすすきの穂がゆらぎ (どうしてどうして松倉山の木は ひどくひどく風にあらびてゐるのだ あのごとごといふのがみんなそれだ) 呼吸のやうに月光はまた明るくなり 雲の遷色とダムを超える水の音 わたしの帽子の静寂と風の塊 いまくらくなり電車の単線ばかりまつすぐにのび レールとみちの粘土の可塑性 月はこの変厄のあひだ不思議な黄いろになつてゐる (一九二三、九、一六)
[#改ページ]沈んだ月夜の楊の木の梢に 二つの星が逆さまにかかる ( オリオンの幻怪と青い電燈 また農婦のよろこびの たくましくも赤い頬 風は吹く吹く 松は一本立ち 山を下る電車の奔り もし車の外に立つたらはねとばされる 山へ行つて木をきつたものは どうしても帰るときは肩身がせまい (ああもろもろの徳は そしてスガタにいたるのです) 腕を組み暗い貨物電車の壁による少年よ この籠で今朝鶏を持つて行つたのに それが売れてこんどは持つて戻らないのか そのまつ青な夜のそば畑のうつくしさ 電燈に照らされたそばの畑を見たことがありますか 市民諸君よ おおきやうだい これはおまへの感情だな 市民諸君よなんてふざけたものの云ひやうをするな 東京はいま生きるか死ぬかの堺なのだ 見たまへこの電車だつて 軌道から青い火花をあげ もう蝎かドラゴかもわからず 一心に走つてゐるのだ (豆ばたけのその どうしてもこの貨物車の壁はあぶない わたくしが壁といつしよにここらあたりで 投げだされて死ぬことはあり得過ぎる 金をもつてゐるひとは金があてにならない からだの丈夫なひとはごろつとやられる あたまのいいものはあたまが弱い あてにするものはみんなあてにならない たゞもろもろの徳ばかりこの巨きな旅の資糧で そしてそれらもろもろの徳性は (一九二三、九、一六)
[#改ページ]青い抱擁衝動や 明るい雨の中のみたされない唇が きれいにそらに溶けてゆく 日本の九月の気圏です そらは霜の織物をつくり ( あやしいそらのバリカンは 白い雲からおりて来て 早くも七つ森第一 松と 野原がうめばちさうや山羊の乳や 沃度の匂で荒れて大へんかなしいとき 汽車の進行ははやくなり ぬれた赤い崖や何かといつしよに 七つ森第二梯形の 新鮮な 手帳のやうに青い まひるの夢をくすぼらし ラテライトのひどい崖から 梯形第三のすさまじい羊歯や こならやさるとりいばらが滑り (おお第一の紺青の寂寥) 縮れて雲はぎらぎら光り とんぼは萱の花のやうに飛んでゐる (萱の穂は満潮 萱の穂は満潮) 一本さびしく赤く燃える栗の木から 七つ森の第四 やまなしの匂の雲に起伏し すこし日射しのくらむひまに そらのバリカンがそれを刈る (腐植土のみちと天の石墨) 夜風太郎の配下と子孫とは 大きな帽子を風にうねらせ 落葉松のせはしい足なみを しきりに馬を急がせるうちに 早くも第六梯形の暗いリパライトは ハツクニーのやうに刈られてしまひ ななめに琥珀の ((たうとうぼくは一つ勘定をまちがへた 第四か第五かをうまくそらからごまかされた)) どうして決して そんなことはない いまきらめきだすその真鍮の畑の一片から 明暗交錯のむかふにひそむものは まさしく第七梯形の 雲に浮んだその最後のものだ 緑青を吐く松のむさくるしさと ちぢれて悼む 雲の羊毛 ( (一九二三、九、三〇)
[#改ページ]萱の穂は赤くならび 雲はカシユガル産の苹果の果肉よりもつめたい 鳥は一ぺんに飛びあがつて ラツグの音譜をばら撒きだ 古枕木を灼いてこさへた 黒い保線小屋の秋の中では 四面体 米国風のブリキの缶で たしかメリケン粉を 鳥はまた一つまみ 空からばら撒かれ 一ぺんつめたい雲の下で展開し こんどは巧に引力の法則をつかつて 遠いギリヤークの電線にあつまる 赤い碍子のうへにゐる そのきのどくなすゞめども 口笛を吹きまた新らしい濃い空気を吸へば たれでもみんなきのどくになる 森はどれも群青に泣いてゐるし 松林なら地被もところどころ剥げて 酸性土壌ももう十月になつたのだ 私の着物もすつかり thread-bare その陰影のなかから 逞ましい向ふの土方がくしやみをする 氷河が海にはひるやうに 白い雲のたくさんの流れは 枯れた野原に注いでゐる だからわたくしのふだん決して見ない 小さな三角の前山なども はつきり白く浮いてでる 栗の梢のモザイツクと 水のそばでは堅い黄いろなまるめろが 枝も裂けるまで実つてゐる (こんどばら撒いてしまつたら…… ふん ちやうど四十雀のやうに) 雲が縮れてぎらぎら光るとき 大きな帽子をかぶつて 野原をおほびらにあるけたら おれはそのほかにもうなんにもいらない 火薬も燐も大きな紙幣もほしくない (一九二三、一〇、一〇)
[#改ページ]截られた根から青じろい樹液がにじみ あたらしい腐植のにほひを嗅ぎながら きらびやかな雨あがりの中にはたらけば わたくしは移住の 雲はぐらぐらゆれて馳けるし 梨の葉にはいちいち精巧な葉脈があつて 短果枝には雫がレンズになり そらや木やすべての景象ををさめてゐる わたくしがここを環に掘つてしまふあひだ その雫が落ちないことをねがふ なぜならいまこのちひさなアカシヤをとつたあとで わたくしは えりをりのシヤツやぼろぼろの上着をきて 企らむやうに肩をはりながら そつちをぬすみみてゐれば ひじやうな わたくしはゆるされるとおもふ なにもかもみんなたよりなく なにもかもみんなあてにならない これらげんしやうのせかいのなかで そのたよりない こんなきれいな露になつたり いぢけたちひさなまゆみの木を 豪奢な織物に染めたりする そんならもうアカシヤの木もほりとられたし いまはまんぞくしてたうぐはをおき わたくしは待つてゐたこひびとにあふやうに それはひとつの もう水いろの過去になつてゐる (一九二三、一〇、一五)
[#改ページ]松がいきなり明るくなつて のはらがぱつとひらければ かぎりなくかぎりなくかれくさは日に燃え 電信ばしらはやさしく白い碍子をつらね ベーリング市までつづくとおもはれる すみわたる きよめられるひとのねがひ からまつはふたたびわかやいで萌え 幻聴の透明なひばり また心象のなかにも起伏し ひとむらのやなぎ木立は ボルガのきしのそのやなぎ 火口の雪は皺ごと刻み くらかけのびんかんな 青ぞらに星雲をあげる (おい かしは てめいのあだなを やまのたばこの木つていふつてのはほんたうか) こんなあかるい はんにちゆつくりあるくことは いつたいなんといふおんけいだらう わたくしはそれをはりつけとでもとりかへる こひびととひとめみることでさへさうでないか (おい やまのたばこの木 あんまりへんなをどりをやると 未来派だつていはれるぜ) わたくしは森やのはらのこひびと つつましく折られたみどりいろの通信は いつかぽけつとにはひつてゐるし はやしのくらいとこをあるいてゐると 肱やずぼんがいつぱいになる (一九二三、一〇、二八)
[#改ページ]喪神のしろいかがみが 薬師火口のいただきにかかり 日かげになつた火山 畏るべくかなしむべき わたくしはさつきの柏や松の野原をよぎるときから なにかあかるい曠原風の情調を ばらばらにするやうなひどいけしきが 展かれるとはおもつてゐた けれどもここは空気も深い淵になつてゐて ごく強力な鬼神たちの棲みかだ 一ぴきの鳥さへも見えない わたくしがあぶなくその一一の すこしの小高いところにのぼり さらにつくづくとこの焼石のひろがりをみわたせば 雪を越えてきたつめたい風はみねから吹き 雲はあらはれてつぎからつぎと消え いちいちの 貞享四年のちひさな噴火から およそ二百三十五年のあひだに 空気のなかの酸素や炭酸瓦斯 これら清洌な どれくらゐの どんな植物が生えたかを 見ようとして それは恐ろしい二種の苔で答へた その白つぽい厚いすぎごけの 表面がかさかさに乾いてゐるので わたくしはまた麺麭ともかんがへ ちやうどひるの食事をもたないとこから ひじやうな (なぜならたべものといふものは それをみてよろこぶもので それからあとはたべるものだから) ここらでそんなかんがへは あんまり僭越かもしれない とにかくわたくしは荷物をおろし 灰いろの苔に靴やからだを埋め 一つの赤い うるうるしながら苹果に噛みつけば 雪を越えてきたつめたい風はみねから吹き 野はらの白樺の葉は 北上山地はほのかな幾層の青い縞をつくる (あれがぼくのしやつだ 青いリンネルの農民シヤツだ) (一九二三、一〇、二八)
[#改ページ]けさはじつにはじめての凜々しい みんなはまるめろやなにかまで出して歓迎した (一九二三、一一、二二)
[#改ページ]そらにはちりのやうに小鳥がとび かげろふや青いギリシヤ文字は せはしく野はらの雪に燃えます パツセン大街道のひのきからは 凍つたしづくが 銀河ステーシヨンの遠方シグナルも けさはまつ 川はどんどん みんなは 狐や犬の毛皮を着て 陶器の露店をひやかしたり ぶらさがつた あのにぎやかな土沢の冬の (はんの木とまばゆい雲のアルコホル あすこにやどりぎの黄金のゴールが さめざめとしてひかつてもいい) あゝ Josef Pasternack の指揮する この冬の銀河軽便鉄道は 幾重のあえかな氷をくぐり (でんしんばしらの赤い碍子と松の森) にせものの金のメタルをぶらさげて 茶いろの瞳をりんと張り つめたく青らむ天椀の下 うららかな雪の台地を急ぐもの (窓のガラスの氷の羊歯は だんだん白い湯気にかはる) パツセン大街道のひのきから しづくは燃えていちめんに降り はねあがる青い枝や 紅玉やトパースまたいろいろのスペクトルや もうまるで市場のやうな盛んな取引です (一九二三、一二、一〇)
底本:「宮沢賢治全集1」ちくま文庫、筑摩書房 1986(昭和61)年2月26日第1刷発行 1998(平成10)年5月12日第17刷発行 ※底本で注を表す記号として用いられていた「※」は「*」に置き換えました。 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:柴田卓治 校正:かとうかおり 2000年10月4日公開 2011年5月11日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。 ●表記について
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