虹の絵具皿
(十力の金剛石)
宮沢賢治
むかし、ある
霧のふかい朝でした。
王子はみんながちょっといなくなったひまに、
玻璃でたたんだ自分のお
室から、ひょいっと
芝生へ
飛びおりました。
そして
蜂雀のついた青い大きな
帽子を
急いでかぶって、どんどん
向こうへかけ出しました。
「王子さま。王子さま。どちらにいらっしゃいますか。はて、王子さま」
と、年よりのけらいが、
室の中であっちを
向いたりこっちを
向いたりして
叫んでいるようすでした。
王子は
霧の中で、はあはあ
笑って立ちどまり、ちょっとそっちを
向きましたが、またすぐ
向き
直って音をたてないように
剣のさやをにぎりながら、どんどんどんどん
大臣の家の方へかけました。
芝生の草はみな朝の
霧をいっぱいに
吸って、青く、つめたく見えました。
大臣の家のくるみの木が、
霧の中から
不意に黒く大きくあらわれました。
その木の下で、
一人の
子供の
影が、
霧の
向こうのお
日様をじっとながめて立っていました。
王子は声をかけました。
「おおい。お早う。
遊びに来たよ」
その小さな
影はびっくりしたように動いて、王子の方へ走って来ました。それは王子と同じ年の
大臣の子でした。
大臣の子はよろこんで顔をまっかにして、
「王子さま、お早うございます」と
申しました。
王子が口早にききました。
「お前さっきからここにいたのかい。何してたの」
大臣の子が答えました。
「お日さまを見ておりました。お日さまは
霧がかからないと、まぶしくて見られません」
「うん。お日様は
霧がかかると、
銀の
鏡のようだね」
「はい、また、大きな
蛋白石の
盤のようでございます」
「うん。そうだね。
僕はあんな大きな
蛋白石があるよ。けれどもあんなに光りはしないよ。
僕はこんど、もっといいのをさがしに行くんだ。お前もいっしょに行かないか」
大臣の子はすこしもじもじしました。
王子はまたすぐ
大臣の子にたずねました。
「ね、おい。
僕のもってるルビーの
壺やなんかより、もっといい
宝石は、どっちへ行ったらあるだろうね」
大臣の子が
申しました。
「
虹の
脚もとにルビーの
絵の
具皿があるそうです」
王子が口早に
言いました。
「おい、
取りに行こうか。行こう」
「今すぐでございますか」
「うん。しかし、ルビーよりは
金剛石の方がいいよ。
僕黄色な
金剛石のいいのを持ってるよ。そして
今度はもっといいのを
取って来るんだよ。ね、
金剛石はどこにあるだろうね」
大臣の子が
首をまげて少し考えてから
申しました。
「
金剛石は山の
頂上にあるでしょう」
王子はうなずきました。
「うん。そうだろうね。さがしに行こうか。ね。行こうか」
「王さまに
申し上げなくてもようございますか」と
大臣の子が目をパチパチさせて
心配そうに
申しました。
その時うしろの
霧の中から、
「王子さま、王子さま、どこにいらっしゃいますか。王子さま」
と、年とったけらいの声が聞こえて
参りました。
王子は
大臣の子の手をぐいぐいひっぱりながら、小声で
急いで
言いました。
「さ、行こう。さ、おいで、早く。
追いつかれるから」
大臣の子は
決心したように
剣をつるした
帯革を
堅くしめ
直しながらうなずきました。
そして二人は
霧の中を風よりも早く森の方へ走って行きました。
*
二人はどんどん野原の
霧の中を走って行きました。ずうっとうしろの方で、けらいたちの声がまたかすかに聞こえました。
王子ははあはあ
笑いながら、
「さあ、も少し走ってこう。もう
誰も
追いつきやしないよ」
大臣の子は小さな
樺の木の下を通るとき、その大きな青い
帽子を
落としました。そして、あわててひろってまた一生けん
命に走りました。
みんなの声ももう聞こえませんでした。そして野原はだんだんのぼりになってきました。
二人はやっと
馳けるのをやめて、いきをせかせかしながら、草をばたりばたりと
踏んで行きました。
いつか
霧がすうっとうすくなって、お日さまの光が
黄金色に
透ってきました。やがて風が
霧をふっと
払いましたので、
露はきらきら光り、きつねのしっぽのような茶色の
草穂は
一面波を立てました。
ふと気がつきますと遠くの
白樺の木のこちらから、目もさめるような
虹が空高く光ってたっていました。
白樺のみきは
燃えるばかりにまっかです。
「そら
虹だ。早く行ってルビーの
皿を取ろう。早くおいでよ」
二人はまた走り出しました。けれどもその
樺の木に近づけば近づくほど美しい
虹はだんだん
向こうへ
逃げるのでした。そして二人が
白樺の木の前まで来たときは、
虹はもうどこへ行ったか見えませんでした。
「ここから
虹は立ったんだね。ルビーのお
皿が
落ちてないか知らん」
二人は足でけむりのような茶色の
草穂をかきわけて見ましたが、ルビーの
絵の
具皿はそこに
落ちていませんでした。
「ね、
虹は
向こうへ
逃げるときルビーの
皿もひきずって行ったんだね」
「そうだろうと思います」
「
虹はいったいどこへ行ったろうね」
「さあ」
「あ、あすこにいる。あすこにいる。あんな遠くにいるんだよ」
大臣の子はそっちを見ました。まっ黒な森の
向こう
側から、
虹は空高く大きく
夢の
橋をかけていたのでした。
「森の
向こうなんだね。行ってみよう」
「また
逃げるでしょう」
「行ってみようよ。ね。行こう」
二人はまた歩き出しました。そしてもう
柏の森まで来ました。
森の中はまっくらで
気味が悪いようでした。それでも王子は、ずんずんはいって行きました。
小藪のそばを通るとき、さるとりいばらが
緑色のたくさんのかぎを出して、王子の
着物をつかんで引き
留めようとしました。はなそうとしてもなかなかはなれませんでした。
王子はめんどうくさくなったので
剣をぬいていきなり
小藪をばらんと切ってしまいました。
そして二人はどこまでもどこまでも、むくむくの
苔やひかげのかずらをふんで森の
奥の方へはいって行きました。
森の木は
重なり合ってうす
暗いのでしたが、そのほかにどうも空まで
暗くなるらしいのでした。
それは、森の中に青くさし
込んでいた一本の日光の
棒が、ふっと
消えてそこらがぼんやりかすんできたのでもわかりました。
また
霧が出たのです。林の中はまもなくぼんやり白くなってしまいました。もう来た方がどっちかもわからなくなってしまったのです。
王子はためいきをつきました。
大臣の子もしきりにあたりを見ましたが、
霧がそこらいっぱいに
流れ、すぐ
眼の前の木だけがぼんやりかすんで見えるだけです。二人は
困ってしまって
腕を組んで立ちました。
すると小さなきれいな声で、
誰か歌いだしたものがあります。
「ポッシャリ、ポッシャリ、ツイツイ、トン。
はやしのなかにふる霧は、
蟻のお手玉、三角帽子の、一寸法師のちいさなけまり」
霧がトントンはね
踊りました。
「ポッシャリ、ポッシャリ、ツイツイ、トン。
はやしのなかにふる霧は、
くぬぎのくろい実、柏の、かたい実のつめたいおちち」
霧がポシャポシャ
降ってきました。そしてしばらくしんとしました。
「
誰だろう。ね。
誰だろう。あんなことうたってるのは。二、三人のようだよ」
二人はまわりをきょろきょろ見ましたが、どこにも
誰もいませんでした。
声はだんだん高くなりました。それはじょうずな
芝笛のように聞こえるのでした。
「ポッシャリ、ポッシャリ、ツイ、ツイ、ツイ。
はやしのなかにふるきりの、
つぶはだんだん大きくなり、
いまはしずくがポタリ」
霧がツイツイツイツイ
降ってきて、あちこちの木からポタリッポタリッと
雫の音がきこえてきました。
「ポッシャン、ポッシャン、ツイ、ツイ、ツイ。
はやしのなかにふるきりは、
いまにこあめにかぁわるぞ、
木はぁみんな 青外套。
ポッシャン、ポッシャン、ポッシャン、シャン」
きりはこあめにかわり、ポッシャンポッシャン
降ってきました。
大臣の子は
途方に
暮れたように目をまんまるにしていました。
「
誰だろう。今のは。雨を
降らせたんだね」
大臣の子はぼんやり答えました。
「ええ、王子さま。あなたのきものは草の
実でいっぱいですよ」そして王子の黒いびろうどの
上着から、
緑色のぬすびとはぎの
実を一ひらずつとりました。
王子がにわかに
叫びました。
「
誰だ、今歌ったものは、ここへ出ろ」
するとおどろいたことは、王子たちの青い大きな
帽子に
飾ってあった二
羽の青びかりの
蜂雀が、ブルルルブルッと
飛んで、
二人の前に
降りました。そして声をそろえて
言いました。
「はい。何かご用でございますか」
「今の歌はお前たちか。なぜこんなに雨をふらせたのだ」
蜂雀はじょうずな
芝笛のように
叫びました。
「それは王子さま。私どもの
大事のご
主人さま。私どもは空をながめて歌っただけでございます。そらをながめておりますと、きりがあめにかわるかどうかよくわかったのでございます」
「そしてお前らはどうして歌ったり
飛んだりしたのだ」
「はい。ここからは私どもの歌ったり
飛んだりできる
所になっているのでございます。ご
案内いたしましょう」
雨はポッシャンポッシャン
降っています。
蜂雀はそう
言いながら、
向こうの方へ
飛び出しました。せなかや
胸に
鋼鉄のはり金がはいっているせいか
飛びようがなんだか少し
変でした。
王子たちはそのあとをついて行きました。
*
にわかにあたりがあかるくなりました。
今までポシャポシャやっていた雨が
急に
大粒になってざあざあと
降ってきたのです。
はちすずめが水の中の青い魚のように、なめらかにぬれて光りながら、
二人の頭の上をせわしく
飛びめぐって、
ザッ、ザ、ザ、ザザァザ、ザザァザ、ザザァ、
ふらばふれふれ、ひでりあめ、
トパァス、サファイア、ダイアモンド。
と歌いました。するとあたりの
調子がなんだか
急に
変なぐあいになりました。雨があられに
変わってパラパラパラパラやってきたのです。
そして
二人はまわりを森にかこまれたきれいな草の
丘の
頂上に立っていました。
ところが二人は
全くおどろいてしまいました。あられと思ったのはみんなダイアモンドやトパァスやサファイアだったのです。おお、その雨がどんなにきらびやかなまぶしいものだったでしょう。
雨の
向こうにはお日さまが、うすい
緑色のくまを
取って、まっ白に光っていましたが、そのこちらで
宝石の雨はあらゆる小さな
虹をあげました。
金剛石がはげしくぶっつかり合っては青い
燐光を
起しました。
その
宝石の雨は、草に
落ちてカチンカチンと鳴りました。それは鳴るはずだったのです。りんどうの花は
刻まれた
天河石と、
打ち
劈かれた
天河石で組み上がり、その
葉はなめらかな
硅孔雀石でできていました。黄色な
草穂はかがやく
猫睛石、いちめんのうめばちそうの花びらはかすかな
虹を
含む
乳色の
蛋白石、とうやくの
葉は
碧玉、そのつぼみは
紫水晶の美しいさきを
持っていました。そしてそれらの中でいちばん
立派なのは小さな
野ばらの木でした。
野ばらの
枝は茶色の
琥珀や
紫がかった
霰石でみがきあげられ、その
実はまっかなルビーでした。
もしその
丘をつくる黒土をたずねるならば、それは
緑青か
瑠璃であったにちがいありません。
二人はあきれてぼんやりと光の雨に
打たれて立ちました。
はちすずめがたびたび
宝石に打たれて
落ちそうになりながら、やはりせわしくせわしく
飛びめぐって、
ザッザザ、ザザァザ、ザザァザザザァ、
降らばふれふれひでりあめ
ひかりの雲のたえぬまま。
と歌いましたので雨の音はひとしお高くなり、そこらはまたひとしきりかがやきわたりました。
それから、はちすずめは、だんだんゆるやかに
飛んで、
ザッザザ、ザザァザ、ザザァザザザァ、
やまばやめやめ、ひでりあめ
そらは みがいた 土耳古玉。
と歌いますと、雨がぴたりとやみました。おしまいの二つぶばかりのダイアモンドがそのみがかれた
土耳古玉のそらからきらきらっと光って
落ちました。
「ね、このりんどうの花はお父さんの
所の
一等のコップよりも
美しいんだね。トパァスがいっぱいに
盛ってあるよ」
「ええ
立派です」
「うん。
僕、このトパァスをはんけちへいっぱい
持ってこうか。けれど、トパァスよりはダイアモンドの方がいいかなあ」
王子ははんけちを出してひろげましたが、あまりいちめんきらきらしているので、もうなんだか
拾うのがばかげているような気がしました。
その時、風が来て、りんどうの花はツァリンとからだを
曲げて、その
天河石の花の
盃を下の方に
向けましたので、トパァスはツァラツァランとこぼれて下のすずらんの
葉に
落ち、それからきらきらころがって草の
底の方へもぐって行きました。
りんどうの花はそれからギギンと鳴って
起きあがり、ほっとため
息をして歌いました。
「トパァスのつゆはツァランツァリルリン、
こぼれてきらめく サング、サンガリン、
ひかりの丘に すみながら
なぁにがこんなにかなしかろ」
まっ
碧な空では、はちすずめがツァリル、ツァリル、ツァリルリン、ツァリル、ツァリル、ツァリルリンと鳴いて二人とりんどうの花との上をとびめぐっておりました。
「ほんとうにりんどうの花は何がかなしいんだろうね」王子はトパァスを
包もうとして、一ぺんひろげたはんけちで顔の
汗をふきながら
言いました。
「さあ私にはわかりません」
「わからないねい。こんなにきれいなんだもの。ね、ごらん、こっちのうめばちそうなどはまるで
虹のようだよ。むくむく
虹が
湧いてるようだよ。ああそうだ、ダイアモンドの
露が一つぶはいってるんだよ」
ほんとうにそのうめばちそうは、ぷりりぷりりふるえていましたので、その花の中の一つぶのダイアモンドは、まるで
叫び出すくらいに
橙や
緑に
美しくかがやき、うめばちそうの花びらにチカチカ
映って
言いようもなく
立派でした。
その時ちょうど風が来ましたので、うめばちそうはからだを少し
曲げてパラリとダイアモンドの
露をこぼしました。
露はちくちくっとおしまいの青光をあげ
碧玉の
葉の
底に
沈んで行きました。
うめばちそうはブリリンと
起きあがってもう一ぺんサッサッと光りました。
金剛石の強い光の
粉がまだはなびらに
残ってでもいたのでしょうか。そして空のはちすずめのめぐりも
叫びも、にわかにはげしくはげしくなりました。うめばちそうはまるで花びらも
萼もはねとばすばかり高く
鋭く
叫びました。
「きらめきのゆきき
ひかりのめぐみ
にじはゆらぎ
陽は織れど
かなし。
青ぞらはふるい
ひかりはくだけ
風のきしり
陽は織れど
かなし」
野ばらの木が赤い
実から
水晶の
雫をポトポトこぼしながらしずかに歌いました。
「にじはなみだち
きらめきは織る
ひかりのおかの
このさびしさ。
こおりのそこの
めくらのさかな
ひかりのおかの
このさびしさ。
たそがれぐもの
さすらいの鳥
ひかりのおかの
このさびしさ」
この時光の
丘はサラサラサラッと一めんけはいがして草も花もみんなからだをゆすったりかがめたりきらきら
宝石の
露をはらいギギンザン、リン、ギギンと
起きあがりました。そして声をそろえて空高く
叫びました。
「十力の金剛石はきょうも来ず
めぐみの宝石はきょうも降らず
十力の宝石の落ちざれば、
光の丘も まっくろのよる
二人は
腕を組んで
棒のように立っていましたが王子はやっと気がついたように少しからだをかがめて、
「ね、お前たちは何がそんなにかなしいの」と野ばらの木にたずねました。
野ばらは赤い光の
点々を王子の顔に
反射させながら、
「今
言った通りです。
十力の
金剛石がまだ来ないのです」
王子は
向こうの
鈴蘭の
根もとからチクチク
射して来る
黄金色の光をまぶしそうに手でさえぎりながら、
「
十力の
金剛石ってどんなものだ」とたずねました。
野ばらがよろこんでからだをゆすりました。
「
十力の
金剛石はただの
金剛石のようにチカチカうるさく光りはしません」
碧玉のすずらんが百の月が
集まった
晩のように光りながら
向こうから
言いました。
「
十力の
金剛石はきらめくときもあります。かすかににごることもあります。ほのかにうすびかりする日もあります。あるときは
洞穴のようにまっくらです」
ひかりしずかな
天河石のりんどうも、もうとても
踊りださずにいられないというようにサァン、ツァン、サァン、ツァン、からだをうごかして
調子をとりながら
言いました。
「その
十力の
金剛石は春の風よりやわらかく、ある時はまるくあるときは
卵がたです。
霧より小さなつぶにもなれば、そらとつちとをうずめもします」
まひるの
笑いの
虹をあげてうめばちそうが
言いました。
「それはたちまち百千のつぶにもわかれ、また
集まって一つにもなります」
はちすずめのめぐりはあまり
速くてただルルルルルルと鳴るぼんやりした青い光の
輪にしか見えませんでした。
野ばらがあまり気が立ち
過ぎてカチカチしながら
叫びました。
「
十力の
大宝珠はある時黒い
厩肥のしめりの中に
埋もれます。それから木や草のからだの中で月光いろにふるい、青白いかすかな
脈をうちます。それから人の
子供の
苹果の
頬をかがやかします」
そしてみんながいっしょに
叫びました。
「十力の金剛石は今日も来ない。
その十力の金剛石はまだ降らない。
おお、あめつちを充てる十力のめぐみ
われらに下れ」
にわかにはちすずめがキイーンとせなかの
鋼鉄の
骨もはじけたかと思うばかりするどいさけびをあげました。びっくりしてそちらを見ますと空が生き
返ったように新しくかがやき、はちすずめはまっすぐに
二人の
帽子におりて来ました。はちすずめのあとを
追って二つぶの
宝石がスッと光って二人の青い
帽子におち、それから花の間に
落ちました。
「来た来た。ああ、とうとう来た。
十力の
金剛石がとうとう下った」と花はまるでとびたつばかりかがやいて
叫びました。
木も草も花も青ぞらも一
度に高く歌いました。
「ほろびのほのお 湧きいでて
つちとひととを つつめども
こはやすらけき くににして
ひかりのひとら みちみてり
ひかりにみてる あめつちは
…………………」
急に声がどこか別の世界に行ったらしく聞こえなくなってしまいました。そしていつか
十力の
金剛石は
丘いっぱいに下っておりました。そのすべての花も
葉も
茎も今はみなめざめるばかり
立派に変わっていました。青いそらからかすかなかすかな
楽のひびき、光の
波、かんばしく
清いかおり、すきとおった風のほめことばが
丘いちめんにふりそそぎました。
なぜならばすずらんの
葉は今はほんとうの
柔らかなうすびかりする
緑色の草だったのです。
うめばちそうはすなおな、ほんとうのはなびらをもっていたのです。そして
十力の
金剛石は野ばらの赤い
実の中のいみじい
細胞の一つ一つにみちわたりました。
その
十力の
金剛石こそは
露でした。
ああ、そしてそして
十力の
金剛石は
露ばかりではありませんでした。
碧いそら、かがやく
太陽、
丘をかけて行く風、花のそのかんばしいはなびらや、しべ、草のしなやかなからだ、すべてこれをのせになう
丘や野原、王子たちのびろうどの
上着や
涙にかがやく
瞳、すべてすべて
十力の
金剛石でした。あの
十力の
大宝珠でした。あの
十力の
尊い
舎利でした。あの
十力とは
誰でしょうか。私はやっとその名を聞いただけです。
二人もまたその名をやっと聞いただけでした。けれどもこの
蒼鷹のように若い
二人がつつましく草の上にひざまずき
指を
膝に組んでいたことはなぜでしょうか。
さてこの光の
底のしずかな林の
向こうから
二人をたずねるけらいたちの声が聞こえて
参りました。
「王子
様王子
様。こちらにおいででございますか。こちらにおいででございますか。王子
様」
二人は立ちあがりました。
「おおい。ここだよ」と王子は
叫ぼうとしましたが、その声はかすれていました。
二人はかがやく黒い
瞳を、
蒼ぞらから林の方に
向けしずかに
丘を下って行きました。
林の中からけらいたちが出て来てよろこんで
笑ってこっちへ走って
参りました。
王子も
叫んで走ろうとしましたが、一本のさるとりいばらがにわかにすこしの青い
鉤を出して王子の足に引っかけました。王子はかがんでしずかにそれをはずしました。
●表記について
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